<構築>人類学入門

第7回 経済3

2010.01.22更新

エチオピアを訪れた日本人が最初に戸惑うのが、都会の物乞いの多さだ。

街中の交差点で車が止まったりすると、赤ん坊を抱えた女性や手足に障がいをもった男性などが駆け寄ってくる。生気のない顔で見つめられ、手を差し出されると、どうしたらよいのか、多くの日本人は困惑してしまう。

「われわれ」と「かれら」のあいだには、埋めがたい格差がある。
かといって、みんなに分け与えるわけにもいかない。では、どうすべきなのか? 
これは途上国を訪れた旅行者のほとんどが抱く葛藤かもしれない。

私も最初に首都のアジスにいたころは、街を歩くたびにそんなジレンマに悩まされた。
安宿のあるピアッサという地区では、裸足の子どもたちによく「マニー、マニー」と言われながら、付きまとわれたりした。

しばらくして、私はいつもポケットにガムを入れておくようになった。
そして、子どもたちにせがまれると、そのガムを渡していた。
白人のバックパッカーが、ザックからパンを取り出して配っている姿を目にしたこともあった。

ぼくらは、こういうとき「お金」を渡すことに慣れていない。
ガムをあげることはできても、「お金」を与えることには抵抗を感じてしまう。
たとえガムのほうが高額でも、わざわざお金を払ってガムを買うことを選ぶ。

それは、これまで書いてきたように、ぼくらが「経済/非経済」というきまりに忠実だからでもある。
この「きまり」は、ふたつの効果をもつ。

ひとつは、「お金」のやりとりが不道徳なものに感じられてしまうこと。
特別の演出が施されていない「お金」は「経済」の領域にあって、人情味のある思いや感情が差し引かれてしまう。だから、何かを渡すとしたら、それは「贈物」でなければならない。

ただし「贈与」は、他者とのあいだに生じる思いや感情を引き受けることを意味する。
それは「交換」に比べると、なにかと厄介だ。子どもならガムでもいいが、大人にはそうはいかない。
贈物には相手が望むものを選ぶ必要がある。相手を怒らせることもある・・・。
「贈与」は簡単ではない。

もうひとつは、「お金」が何らかの代償との等価の「交換」を想起させること。
物乞いが、ぼくらのために働いてくれるわけでも、何かを代わりにくれるわけでもない。
このとき「わたし」には彼らにお金を払う義務はない。

交換において、「わたしのお金」は「わたしの利得」の代価としてのみ使われるべきものとなる。
そこではきちんと収支の帳尻を合わせることが求められる・・・。
簡単に「お金」は渡せない。

こうして、日本人の多くは、物乞いに「なにもあげない」ことを選ぶ。

いま生活しているオリンピアの路上にも、何人か常連の物乞いがいる。
この辺りは、大通り沿いにいくつものビルが建設され、おしゃれな店も多い地区だ。

その歩道で、ひとりの高齢の老婆がよく物乞いをしている。
浅黒い顔に刻まれた深い皺からは、かなりの年を重ねているように見える。
足腰が弱っていて、ゆっくりとしか歩けないので、歩道の中央に突っ立ったまま、道行く人に手を突き出すようにして、お金をせがんでいる。

歩いている人は、たいてい不意に腕や胸のあたりを手で突かれるような格好になる。
若い男性などは、不機嫌そうに振り返って、睨みつけたりする。
でも、ほとんどの人は、その老婆の姿を目のあたりにすると、仕方ないなという顔になって、ポケットから小銭を取り出して渡している。

老婆は、当然のように無言でお金を受け取ると、また次の人に手を突き出す。
いままで、私はこの老婆が物乞いに失敗したのを見たことがない。

エチオピアの人びとは、よく物乞いに「お金」を渡している。
きっとぼくらのほうが豊かなのに、そんなお金持ちの外国人が与えずに、あまり持たないエチオピア人が分け与えている。その姿に、ふと気づかされる。
いかにぼくらが「交換のモード」に縛られているのかと。

いまの日本の社会では、「交換」が幅を利かせている。
さまざまなモノのやりとりが、しだいに交換のモードに繰り入れられてきた。
それは、面倒な「贈与」を回避し、自分の「利得」を確保することを可能にする。
厄介な思いや感情に振り回されることもなくなる。

でも、人間である以上、ぼくらは他者と対面すると、かならず何らかの思いを抱く。
無意識のうちに、他者の感情や欲望に自己の思いを共鳴させる。
この「共感」が、人間どうしのコミュニケーションを可能にする基盤でもある。

体の弱った老婆を目のあたりにして、何も感じないという人はいないだろう。
でも、交換のモードは、そんな共感を抑圧してしまう。

それは同時に、ぼくらが(たんに日本に生まれたという理由で)彼らより豊かな生活をしているという「やましさ」を覆い隠し、何も渡さないことを正当化する。
交換のモードでは、何かを受けとらない限り、与える義務はないのだから。

「みんなに分け与えるわけにはいかない」。
そう感じるのは、おそらく金額の負担そのものが問題なのではない。
道で出会う物乞いにそのつど20セント(約1.5円)ほど渡したところで、たいしたことはない。
交換のモードが、共感を抑圧し、面倒な贈与と対価のない不完全な交換を回避する便法となる。
ぼくらはその「きまり」に従っただけで何も悪くない。そう納得する。

エチオピア人の振る舞いからは、彼らが「共感」に心を開いているのがわかる。
「分け与えなければならない」という強力な「義務」があるわけではない。
物乞いの姿を目にしたときに湧きあがる感情に、たんに従っているまでだ。
老婆は、ただ「ほら、わたしを見なさい」といって、手を突き出す。
(残念ながら、これは共感を抑圧している日本人には通じない)

ぼくらでも、店で商品を買うとき、店員とのモノのやり取りに、何らかの思いや感情が「生じない」のではない。それは、そこから「差し引かれている」。
ふと湧きでるさまざまな思いや感情は、交換のモードを通して不適切なものとして処理され、なかったことにされる。

だからこそ、この「処理」はときどき誤作動する。
マクドナルドの店員のスマイルを自分への好意だと勘違いすることもある。
コンビニでバイトする学生に聞いた話では、女性店員に告白する男性の客がけっこういるそうだ。
これは、むしろ当然のことだと思う。

商品交換の場でも、ときに抑圧をすり抜けて、思いや感情が溢れだすことがある。
他者の振る舞いから、自分自身がとらわれた「きまり」に気づくこともできる。

ぼくらの身体は、「経済/非経済」といった「きまり」に縛られながらも、つねに逸脱の可能性に開かれている。<構築>人類学は、この「ずれ」に光をあてる。
そこから、別の可能な姿の社会/世界を構想する。
それは、内なる「他者」に気づくことでもある。

最近、エチオピアでは、私もポケットに小銭があれば、誰かに渡している。
なるべく自分の収支の帳尻をゆるくして、「お金」が漏れていくようにしている。
そこには、自分が彼らよりも(不当に)豊かであるという「やましさ」とともに、つねに彼らからいろんなものを与えてもらってきたという「負い目」もある。
そのやましさや負い目に、素直に従うようにしている。

そうやって物乞いの人たちと顔見知りになると、笑顔で挨拶を交わすだけで、なにも求められなくなったりする。彼らも「いつももらうのは申し訳ない」と思うのかもしれない。
「贈与」は人のあいだの共感を増幅し、「交換」はそれを抑圧する。

エチオピアにいると、交換モードに凝り固まった身体がほぐされていく。
このほぐれた身体で、社会/世界の歪みを揉みほぐしていこう。

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松村圭一郎(まつむら・けいいちろう)

1975年、熊本生まれ。立教大学社会学部・准教授。エチオピアやザンビアなどアフリカの農村部を中心にフィールドワークを続ける。富の所有や分配、貧困や開発援助の問題などを研究。主著に『所有と分配の人類学』(世界思想社、2008)、『基本の30冊 文化人類学』(人文書院、2011)。
KYOTO的では、28回にわたって「エチオピア的」を連載した。

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