<構築>人類学入門

第9回 感情2

2010.03.19更新

人類学のフィールドワークでは、「他者」との関わりのなかに身をゆだねる。
気心の知れた人と過ごすのとは違って、ときに想像もつかない状況に立たされ、戸惑う。
「フィールド」になじんだ身体は、今度は「ホーム」に戻って、また別の「ずれ」を経験する。
人類学は、こうした「ずれ」や「違和感」を、思考のひとつの足場にしている。

人類学には「ホーム」と「フィールド」の往復が欠かせない。
そして、その両者が思考の対象となる。
第1回で、人類学をやる人がたんにフィールドの「かれら」だけを調査しているわけではない、と書いたのは、こういう意味だ。

エチオピアにいると、日本とは違う「感情」の生じ方を経験する。
そこから、日本社会の「感情」をめぐる環境の特殊さに気づくこともできるし、それまで疑問をもたなかった「感情とは何か?」という根本的な問いにも自覚的になれる(問いとは、最初からそこにあるものではなく、こうしてあるとき「到来」するものだ)。

「感情」は、たんなる神経系の反応であったり、その人だけの「心」の固有な表現とはいえないのかもしれない。それは他者との関わり方に起因しているのではないか?
最初にエチオピアから日本に帰国したときに感じた「ずれ」を振り返ると、そう思える。

そもそも、ぼくらは「感情」をどう理解しているだろうか?
目から涙がこぼれるとき、そこに「悲しみ」があるのは、わかりきったことかもしれない。
でも、涙は悲しいときだけ流れるわけではない。
目にゴミが入ったときも、あくびをしたときも涙は出る。
そんなとき、自分が悲しんでいるとは思わない。
「悲しみ」は「涙」という印だけから、そこにあると理解されるわけではない。

では、なぜ自分のなかの感情が「悲しみ」や「怒り」だとわかるのか?
たとえば、感情が生じるときの心の動きをじっくり観察してみたらどうか。

過去にあった悲しい出来事を思い出してみる。
なんだか目の奥がうずうずしたり、胸がもやもやしたり・・・。
次に、怒りを感じる場面を思い浮かべてみる。
わずかに目の周りに力が入ったり、胸の奥に熱いものが流れる感じがしたり・・・。

やってみるとよくわかるけど、ぼくらはこうした感情を「悲しみ」や「怒り」という言葉以上にうまく表現する語彙をもたない。

あるいは、「悲しみ」や「怒り」といった言葉を手がかりにして、はじめて胸の奥にわきあがる「何か」に意味を与えることができている。

だから、ぼくらは知らない言葉の感情を感じることができない。
古典の教科書に出てくるような「もののあわれ」という言葉の意味を知らなければ、「いやぁ、もののあわれを感じるなぁ」とは言えない。でも、言葉を知り、その「感じ」がぼんやりとでもわかると、そうした感情を覚えることができる。
そして、そのとたん、そこで感じた「何か」は「もののあわれ」としか表現しようがなくなる。

あるいは、「今日は、ハッピーだ!」というときの気分と、「私は幸せ者です」というときの気分は、ちょっと違う。どこがどう違うのか、きちんと説明できなくてもよい。
「なんとなく違う」というだけで、ぼくらはふたつの感情を感じ分けることができる。

これは、感情が身体的な生理現象だけではないことの証拠でもある。
もちろん、心のなかの「何か」は脳内の反応とつながっているだろうけど、「言葉」は、それに「かたち」を与え、分類や区別を可能にし、経験のリアリティを支える。

感情を「わかる」ための手がかりは「言葉」だけではない。

母親が赤ん坊をあやしながら、ふくれっ面をする。
ぼくらは、母親がほんとうに怒っているわけではないことをわかっている。
「涙」や「顔の表情」といった外的に表示される印は、周囲の文脈のなかで理解される。

「経済」のところで書いたように、店員とのモノのやりとりでは何も感じないのに、家族のあいだの同じようなモノのやりとりには感情がこもっているように思える。

感情を引き起こす「刺激」には、人とモノの配置や関係といった文脈全体が含まれている。そこでは、行為する人やそれを見ている人が、どのようにその文脈と関わっているのかが重要になる。

「悲しい」という感情を「わかる」ために、鏡で自分の顔を確認したり、心のなかに生起する「反応」を的確に把握する必要はない(それらはいずれも文脈を問わない理解の仕方だ)。

ある映画をじっと観ている。ストーリーの展開、雰囲気のある音楽、すっと流れ出る涙。
こうした人とモノの配置から、ぼくらは自分のなかに生じている「何か」が「悲しみ」だと疑いなく感じとる(このとき脳内でどういう反応が起きているかは関係ない)。

そうなると、とたんに外的な「刺激」と内的な「反応」という線引き自体があやしくなる。
人と対象との関わり方自体が、刺激や反応の意味を決めているからだ。

そして、感情が社会的な文脈において生じるのであれば、それは自分だけの「心」の表現とはいえない。悲しみや怒りは、ある特定の人やモノの配置にそって意味が確定され、「涙」や「顔の表情」がひとつのリアルな「感情」として理解可能になる。

感情の意味は、さまざまな人やモノの関係のなかで決まる。
感情を覚え、感知する「心」は、その文脈の意味を共有する「他者」とともにある。
だからこそ、同じような対象や場面でも、違った反応を引き起こすことになる。

エチオピアの地方の映画館で『タイタニック』を観ていたときのことだ。
最後、客船が傾き、甲板の手すりにしがみついていた人が次々と落下していく。
凄惨な出来事の胸をしめつけられる結末・・・。
映画館では、この場面で大爆笑が起こった。
エチオピア人の観客は、人が落下していく様がおかしくて仕方ないようだった。

「感情」という不思議。
でも、それを理解することが、どう社会/世界の構築とつながっているのか。
次回、考えてみよう。

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松村圭一郎(まつむら・けいいちろう)

1975年、熊本生まれ。立教大学社会学部・准教授。エチオピアやザンビアなどアフリカの農村部を中心にフィールドワークを続ける。富の所有や分配、貧困や開発援助の問題などを研究。主著に『所有と分配の人類学』(世界思想社、2008)、『基本の30冊 文化人類学』(人文書院、2011)。
KYOTO的では、28回にわたって「エチオピア的」を連載した。

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