<構築>人類学入門

第10回 感情3

2010.04.16更新

感情は、人とモノの配置や関係のなかで生じ、はじめて理解できるようになる。
だから、人の関係が変われば、感情の生じ方にも違いがでる。

最初に書いたように、日本では、感情を生じさせるような人の関係が社会のさまざまな場面から排除されている。

「経済」での言い方を繰り返せば、それは人と人とのやりとりを「経済化=交換化」してきた結果でもある。

「交換」は、やりとりの関係を1回で完結/精算させる。「負い目」や「感謝」といったモノのやりとりに生じやすい思いや感情は「なかったこと」にされる。

そこで対面する「人」は、脱感情化された交換相手でしかない。
与えるべきものを与え、もらうものをもらったら、その関係は終わる。
この交換の関係は、人のコミュニケーションの基盤となる「共感」も抑圧する。

人は、相手が何を考え、感じているかわからないと、コミュニケーションを始めることもできない。

たとえば、道を歩いていると、見覚えのある人がやってくる。
名前は思い出せない。相手も自分のことを忘れているかもしれない。
ちらちらと様子をみて、こちらに気づかないようであれば、声をかけにくい。
でも、ふと目があったとき、相手が笑顔になれば、自然とコミュニケーションが始まるだろう。

相手の言葉や表情の意味を読みとる(=共感する)ことが、その場にふさわしいコミュニケーションを進める鍵となる。子どもをあやしてふくれっ面する母親に、なにを怒っているの! と咎める人は、適切なコミュニケーションができない。

感情を表現したり、感じとったりするのにも、この「共感」の能力が密接に関わっている。
感情は、人とモノの配置や関係にそって生じる。だから、人は、つねにその文脈をきちんと読みとらなければならない。そうしてはじめて、自分の感情を適切に表現し、相手の感情の動きをうまく感知できるようになる。

自分の思いを表現し、他者の思いに共感する。
これは、人類が進化によって獲得してきた卓抜した能力のひとつだ。

飼い犬の感情を読みとれるという人もいるだろうが(ペットの緑亀の気持ちがわかるという人もいた)、人間以外の生物は、極端に表情に乏しい。

「笑う犬」という表現に「おかしさ」があるのは、ふつう犬が人間のように顔全体の筋肉を使って「笑い」を表現することができないからだ。
それはまさに「身体的」に制約されている。

でも、顔の表情が豊かであれば、相手の内面が手にとるようにわかるわけではない。

たとえば「笑顔」はつねに「好意」を示しているわけではない。
愛想笑いも、苦笑いも、サービスの笑顔も、いろいろある。
ある程度まで、その笑顔の背後にある「思い」や「感情」を把握しないと、会話などのコミュニケーションを続けるのに支障が出てしまう。
共感の能力がそれを可能にしている。

感情/共感は、ふつうルールに則って作動する。
このモノのやりとりは「商品交換」ですよ、と値札やレジ、店員の制服といった装置が明示している(そこでは、感情や共感が抑制される)。
同じく、リボンや包装、返礼までの時間差は「贈物」の印になる(そこには思いや感情が込められていると感じる)。

「交換」にくらべ、「贈物」のやりとりには、読みとるべき思いや感情がいろいろあって、神経をつかう。誰もが、恋人や友人へのプレゼントやお祝いに何を贈れば喜んでもらえるか、相手のことを思い浮かべながら、頭を悩ませた経験があるだろう(レジの前で店員にお金をどう渡せばよいか悩む人はいない)。

エチオピアには、この「贈与」の関係があふれている。
ふつうに商品交換が行われるような場でも、すぐ「贈与」の関係になってしまう。

たとえば、あなたがご飯を食べようとレストランに入る。と、知人が食事をしている。
ここで、相手がエチオピア人なら、かならず「いっしょに食べろ」と言われる。
「食欲」という欲求は容易に共感され、「独り占め」を後ろめたく感じさせ、「相手にふるまう」ことを求める。

逆に、あなたが何かを食べているときに知り合いが通りかかれば、食べないとわかっていても、「食べよう」と声をかけることが礼儀だ。心配しなくても、相手も適切に状況を読んで、(嘘でも)「いま食べたからいいよ」とか言ってくれる。
こうしたやりとりは、ふたりが情にみちた「贈与/共感」の関係にあることの確認作業でもある。

日本なら、レストランは商品交換の場なので、それぞれがお金を払って好きなものを食べ、ふつう同席した人への配慮も遠慮も必要ない。その場での「共感」は抑圧される。

でも、場所やタイミングによっては、予期せず知人と同席したりすると、どこか「気まずさ」を感じるという感覚もわかるだろう。これは相手への共感が抑えがたく生じてしまうからであり、その場で、どういう関係のパターンを選ぶべきか、微妙になるからだ。

「交換」の関係のほうが、後腐れがないし、さばさばしているし、気も遣わなくて済む。
でも、どこかそっけなくて、知人や友人どうしでは、情に欠けるように思える。
「贈与」の関係は、なにかと面倒だが、そこで生じる感情や共感を増幅させる。

ぼくらは、こうしてそのつど、ある関係のモードを選択しながら、そこにふさわしい感情を表出/感受しあっている。

感情や共感について考えることは、他者とどんな関係を築き合うかを問い直すことでもある。
そして、他者との関係の築き方は、そのままぼくらがどういう社会/世界をつくりあげるかにつながる。

ぼくらはひとりでは生きていけない。
だから、他者とともに関係の網の目としての社会を構築している。
「経済」も「感情」も、この関係の結び方と密接に関わっている。

ぼくらは、どうやって「関係としての社会」をつくりだしているのか?
次回からは、この「関係」をテーマに考えていこう。

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松村圭一郎(まつむら・けいいちろう)

1975年、熊本生まれ。立教大学社会学部・准教授。エチオピアやザンビアなどアフリカの農村部を中心にフィールドワークを続ける。富の所有や分配、貧困や開発援助の問題などを研究。主著に『所有と分配の人類学』(世界思想社、2008)、『基本の30冊 文化人類学』(人文書院、2011)。
KYOTO的では、28回にわたって「エチオピア的」を連載した。

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