<構築>人類学入門

第12回 関係2

2010.06.18更新

エチオピアといえば、コーヒーを思い浮かべる人もいるだろう。
エチオピアは、日本で「モカ」として知られるアラビカ種の原産地で、世界的に有数の生産国でもある。

南米やアフリカのコーヒー生産国は、ふつう国内ではあまり消費せずに、もっぱら海外に輸出しているケースが多い。
でも、エチオピアでは、コーヒーの全収穫量の半分近くを国内で消費している。
人びとは、コーヒーを貴重な現金獲得源としてだけでなく、日々の生活の大切な嗜好品として楽しんでいる。

そんなコーヒーを飲むとき、エチオピアの村では、きまって隣近所の人を招く。
自分たちの家だけで飲むことは、まずありえない。

そんなことしたら、すぐ「あそこは自分たちだけでこっそりコーヒーを飲んでるのよ!」なんて、陰口をたたかれてしまう。
隠れて飲もうとしたって、どうせ豆を挽く音や煎るときの香りでばれてしまう。
コーヒーは誰もが好む貴重品というだけでなく、独り占めせずみんなに振る舞うべきアイテムなのだ。

自分たちとは異なる民族でも、異教徒であっても、コーヒーを飲むときは、互いに誘い合って一緒に飲むことが多い。そして、2杯、3杯とおかわりをしながら、20〜30分の時間をともに過ごす。

招く側の家族がイスラームであれば、コーヒーを飲むとき、まずアッラーにお祈りを捧げる。
その場に招かれたキリスト教徒も、祈りに合わせて「アーメン、アーメン」と呼応する。

民族が違う場合、会話のなかでふたつの言語がまじりながら会話が進むこともある。
エチオピアのなかでも複数の民族がともに暮らすような地域では、多くの人がふたつ以上の言語を話すことができる。だから、話題などに応じて話される言語が切り替わったりする。

以前、隣近所でどれだけコーヒーがともに飲まれているか調査してみたことがある。
すると、多いときは1日5回も近所の人が集まって一緒にコーヒーを飲んでいることがわかった。
ずっとそれにつきあって毎日コーヒーばかり飲んでいたら、数日で胃がおかしくなったほどだ。
エチオピアの村では、コーヒーを介して人びとがつながりあっている。

前回、人と人との「関係」をめぐる現実がお互いの行為によって構築されていくと書いた。
ぼくらは、最初から定まった関係に沿って行為しているのではなく、小さな行為を積み重ねながら、ある「関係」のかたちをつくりあげている。

エチオピアの村で暮らす人びとの関係も、そういう視点から理解できる。
人びとは、「民族」や「宗教」、「言語」といった固定した枠組みだけをもとに「関係としての社会」を築いているわけではない。

ともにコーヒーを飲み、たわいもない噂話に興じたり、体験談をおもしろおかしく話したりしながら、ひとつの「つながり」を実現させている。
多様な背景をもった人びとが同じ時間を過ごすという行為の積み重ねが、共通の理解や認識を生み出し、言葉や宗教の壁を越えた「ともに生きる素地」をつくりだしている。

こうした日常のなかでつくられる「関係」にとって、言葉や宗教の違いはそれほど大きなものではない。たとえ民族や宗教が違っていても深い絆で結ばれることもあるし、結婚してひとつの家庭を築くことだってある。

たぶん人類は長い歴史のなかで、そうやっていろんな「他者(かれら)」を「われわれ」にしながら生きてきたはずだ。

外国人だから、文化が違うから、異教徒だから、○○だから・・・。
とかく、ぼくらは異質な他者を既存の枠組みに押し込め、最初から関係を築くことを拒絶してしまいがちだ。その排除のまなざしは、最初にとりあげた精神病患者のような他者にも向けられる。

さて、ようやく前半部分の終わりに近づいてきた。
次回、これまでの回を振り返りながら、身近なところから「関係としての社会」を動かしていく可能性について考えてみよう。

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松村圭一郎(まつむら・けいいちろう)

1975年、熊本生まれ。立教大学社会学部・准教授。エチオピアやザンビアなどアフリカの農村部を中心にフィールドワークを続ける。富の所有や分配、貧困や開発援助の問題などを研究。主著に『所有と分配の人類学』(世界思想社、2008)、『基本の30冊 文化人類学』(人文書院、2011)。
KYOTO的では、28回にわたって「エチオピア的」を連載した。

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