<構築>人類学入門

第14回 「社会」と「世界」をつなぐもの

2010.08.20更新

最初に「よりよい社会/世界をつくるための人類学をめざして」と書いた。

大きな目標を掲げてしまって、いまになって苦しんでいるのだけども、ここまで書いてくるうちに、なんとなく越えるべきハードルがみえてきたように思う。

途中から「社会」という言葉は使っても、「世界」という表現を控えてきた理由もそこにある。

「精神」、「経済」、「感情」、「関係」。
いずれの回も、いまここで対面し、行為している人と人との「あいだ」に出現する何かとして描いてきたし、考えてきた。

そうやって、いろんな「やりとり」を交わす間柄の集合体が「社会」だとしたら、「世界」は、その関係を超えた遥か向こう側にまで広がっているような領域だといえる。

じっさいには、そのふたつに明確な境界線を引くことはできないのだけれど、ぼくらの想像のなかでは、つねに「つながっている」と実感できる場所や間柄の外に、そこからは手が届かない「世界」が広がっているようにみえている。

さて、文化人類学は、ありとあらゆることを研究テーマにしながらも、フィールドワークという現場に出かけて調査をする手法だけは貫いてきた。

実際に顔をつきあわせて話を聞き、自分の目で確かめ、人びとが生きている場の雰囲気や色やにおいなんかを五官全部で感じとりながら、何かを理解しようとしている。

だから多くの人類学の仕事は、世界の片隅で起きている小さな出来事に立ち会って、その場所から社会の成り立ちを理解することに情熱を傾けてきた。

自分も、10年以上にわたって、エチオピアのひとつの村をたびたび訪れて、そこでともに時間を過ごすことを足場に、いろんなことを考えようとしてきた。

日本とアフリカを往復するなかで生じる疑問や違和感に耳を澄まし、自分の身体の内と外に生起する微細な変化や動きに目を凝らしてきた。

でも、やっぱりその思考は、いろんなモノや言葉のやりとりが連鎖・反復している「社会」の範囲内に止まっていたように思う。

その「社会」のなかでは、自分が向き合っている「他者」との関わり方を通して、何かを変えていくことができるかもしれない。でも、それが「世界」として想像されている領域を動かすことになるのだろうか。

「社会」と「世界」は、どんなつながり方をしているのか?
いったい、ぼくらはどうしたら「社会→世界」の構築に参画できるのか?

たぶん、それがいま考えるべき問いなのだと思う。

いろんなところで、いろんな人が、国家とか、市場とか、グローバル化とか、資本主義だとか、権力だとか、等身大の自分には実感としての「手触り」がえられないものについて声高に語っている。

もしかしたら、あえて人類学の立場で語りなおす必要はないのかもしれない。
人類学に独自の語り口を紡ぎ出せる余地はないのかもしれない。

でも、なんとかしてこのハードルを越えないと、話が完結しないような気分になってしまったのだから、仕方がない。考えてみるしかない。

こう書きながらも、じつは何から手をつければよいのか、わかっていない。

ぐるぐると同じような道をたどるだけで、結局、迷子になってしまうかもしれないけど、とにかく一歩ずつ、考えを進めていこう。

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松村圭一郎(まつむら・けいいちろう)

1975年、熊本生まれ。立教大学社会学部・准教授。エチオピアやザンビアなどアフリカの農村部を中心にフィールドワークを続ける。富の所有や分配、貧困や開発援助の問題などを研究。主著に『所有と分配の人類学』(世界思想社、2008)、『基本の30冊 文化人類学』(人文書院、2011)。
KYOTO的では、28回にわたって「エチオピア的」を連載した。

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