<構築>人類学入門

第20回 市場3

2011.02.25更新

社会主義国では、資源の配分を国家が一元的に決定していた。
市場経済では、原則として、その配分の「最適値」を消費者の行動が決めていく。
いわば、社会で「よい」とされる価値が、多数の決定者の選択にゆだねられている。

売れる商品をつくる会社は「よい」会社で、商品が売れない会社は淘汰される。
人や企業が集まる観光地や都市が「よい」地域で、魅力がないと人は去っていく。
(多くの社会主義国では、国家が人口の配置を決定し、自由な移動が制限された)

政治の世界だって同じ。
票をとれる人が「よき」政治家とされ、国民から支持されない政策は、実現が困難になる。

社会主義が独裁的な政治体制になる一方で、市場経済が政治的な民主主義と相性がよい理由はここにある。

市場経済/民主主義では、社会にとっての「価値」は、与えられない。
みんな、それぞれいろんなことを言ったり、行動したりする自由がある。
そこでたくさんの支持を集めたものが、「よい」とされる。

世界の中心で、社会にとっての価値をつねに提示し、意志決定を担いつづける人や権力は存在しない。

価値をつくりだし、意志決定しているのは、無数の「わたし」であり、「あなた」なのだ。

わたしとあなたがいま、どこの出版社の本を手にとり、どういう番組を視聴し、毎日どのウェブサイトをチェックするか。
この瞬間に、どのようなことに憤りを覚え、誰を愛し、何に心を揺さぶられるか。
そのひとつひとつの行動が、世界を動かし、社会のかたちを決めていく。

「市場」は、ぼくらひとりひとりが世界/社会をつくりだすことを可能にする。

「市場」では、ときに「適正」とはほど遠い偏った富の配分がなされる。
前回書いたように、行為の責任を過剰に個人に負わせる仕組みでもある。

でも、だからこそ、ぼくらがこの手で世界/社会を構築できる可能性も秘めている。

この世の困難さの多くは、ある面では負の効果をもつ手段や行為が、同時に正の可能性をもつことにある。

どこかに諸悪の根源があって、それをとり除けばすべてがうまくいく、なんてことはない。
すべての問題を最終的に解決できる力や手段があるわけでもない。
残念ながら、世の中はそうなっていない。

個人が社会の価値を生み出すことを可能にする一方で、特定の個人に富が過剰に配分されたり、社会の責任が押しつけられたりする。

この「市場」の両義性に向き合うとき、「国家」との関係が重要になる。
市場経済でも、一元的な意志決定をする「国家」は維持されている。
ぼくらの日々の行いと直接はリンクしない意志決定の制度がある。

市場と国家。
このふたつは対立する仕組みのように言われることもあるけど、それは違う。
市場は国家を必要とし、国家は市場を必要としている。

市場が限られた企業の独占状態にあると、消費者は「選択」自体ができなくなる。
新しい発想と活力を引き出すには、企業にとっても自由な競争が担保される必要がある(この「自由」を可能にしているのは、「ルール」であって、「放任」ではない)。

市場が大混乱すれば、その収拾に乗り出せるのは、国家しかいない(リーマン・ショックのあと、国家がどれほど私企業を救済し、「市場」を支えたか)。

市場にとって、ルールをつくり、セーフティネットを提供する国家は、欠かせない。
そして国家も、市場をとおして一定の責任と権限を分散させ、その維持をはかっている。

市場と国家は、切っても切り離せない。

一元管理を志向する国家と分散された意志決定の自由を求める市場。
現代の世界に生きるぼくらは、このふたつの力学のただなかにいる。

市場が搾取の道具になるか、それとも志ある人びとの可能性を生かす場になるか。
それは、国家が市場にどのようなルールをつくり、消費者/有権者がいかに選択をするか、にかかっている。

市場と国家の力学を見極め、世界とぼくらをつないでいる細い糸をたぐり寄せる。
<構築>人類学の仕事は、その糸のありかを指し示すことにある。

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松村圭一郎(まつむら・けいいちろう)

1975年、熊本生まれ。立教大学社会学部・准教授。エチオピアやザンビアなどアフリカの農村部を中心にフィールドワークを続ける。富の所有や分配、貧困や開発援助の問題などを研究。主著に『所有と分配の人類学』(世界思想社、2008)、『基本の30冊 文化人類学』(人文書院、2011)。
KYOTO的では、28回にわたって「エチオピア的」を連載した。

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