<構築>人類学入門

第24回 公平1

2011.06.10更新

そろそろまとめに入ろう。

最初に、よりよい社会/世界を目指して、と書いた。
この「よりよい社会/世界」とは、どんな場所なのか。

ひとことで言えば、「公平=フェア」な場なのだと思う。

努力や能力が報われる一方で、努力や能力が足りなくても穏やかな生活が送れる。
一部の人だけが特権的な生活を独占することなく、一部の人だけが不当な境遇を強いられることもない。

誰もが好きなこと、やりたいことができる。
でも、みんなが少しずつ嫌なこと、負担になることも分けあっている。

社会/世界へのポジティブな思いが醸成され、その実現が支援される。
ただ、ネガティブな気持ちにも、声をあげ、耳が傾けられる機会がある。

多様な生き方や価値観が許され、それぞれが違った役割を担える。
同時に、その差異をつなげ、交感し、調停する仕組みもつくられている。

いろんな人がひとつの場を共有しながら生きている。
そこにどう「公平さ」が築かれ、維持できるのか。

<構築>人類学は、同時代の世界にいながら、異なる状況や仕組みのなかで生きている人びとの現場から、その可能性について考えている。
ここでは、つねにエチオピアと日本を往復しながら、考えを進めてきた。

おそらく公平な社会/世界を実現するのは、革命的な手法ではない。
すでにぼくらが手にしているもののなかにそのヒントはあると思う。
なぜなら、大切なのは「バランス」を取り戻すことなのだから。

この世界を動かしている国家や市場というシステム。
ぼくらが社会のなかで日常的にくり返しているコミュニケーション。
いずれも「わたし」と「あなた」が有形・無形のモノをやりとりする平面であり、社会/世界をつくりだしている手段でもある。

そのいま・ここにあるものをひとつひとつ解きほぐしながら、バランスを乱す要因を見つけ、調和を取り戻す可能性を探る。

「公平さ」を希求する志向自体も、いま・ここにないものではない。
それはすでに、ぼくらの心と身体に深く刻まれている。

震災のあと、多くの人が何かをしなければ、という思いに駆り立てられたと思う。
そこには、一方で過酷な状況を強いられた人びとがいながら、自分たちが平穏な生活を送れていることへの申し訳なさ、「負い目」のような気持ちがあったはずだ。

義援金を送る。ボランティアをする。自分にできることを考える。
(あるいは、なかったことにする。忘却する。知らないふりをする・・・)

そうやって、ぼくらの心と身体は、社会のなかに突如あらわれた絶望的なまでの格差を前に、公平さというバランスを取り戻そうとしたはずだ。

たぶん公平さへの欲求は、人間という社会的存在の深い部分に根ざしている。

唐突に「正義」を振りかざすことでも、声高に「革新」を叫ぶことでもなく。
すでにいつか・どこかで・誰かが経験してきたはずの何かに光をあて、そのよりよき可能性を開く。

<構築>人類学の根底には、人間への信頼がある。
いま・ここにいる「わたし/あなた」の外側の力に頼る必要はない。

まずは「公平さへの欲求」を手がかりに続けよう。

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松村圭一郎(まつむら・けいいちろう)

1975年、熊本生まれ。立教大学社会学部・准教授。エチオピアやザンビアなどアフリカの農村部を中心にフィールドワークを続ける。富の所有や分配、貧困や開発援助の問題などを研究。主著に『所有と分配の人類学』(世界思想社、2008)、『基本の30冊 文化人類学』(人文書院、2011)。
KYOTO的では、28回にわたって「エチオピア的」を連載した。

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