<構築>人類学入門

第28回 <反省会>

2011.10.31更新

前回で<構築>人類学入門は、完結したつもりでいたら、ミシマさんから「今月号の原稿は?」と真顔で聞かれてしまったので、今日は、これまでを振り返って「反省会」を開こうと思います。

(仮想の)ゲストに立教の学生のコウくんに来てもらいました。

コウ:あっ、よろしくお願いします。いちおう、ときどき読んでました。

マツ:それは、どうも。ちゃんと言いたいこと、伝わってたかな?

コウ:うーん・・・。そうですね。たぶん、<構築>人類学って、公平な世のなかをつくりたいんだけど、不公平というのは、いろんなところで覆い隠されているから、それをちゃんと表に出していこうと・・・。

マツ:うん、そもそもどこで公平さのバランスが崩れてるのか、よくわからなくなってる。

コウ:でも、なんで隠されてるんでしたっけ?

マツ:国家とか市場とか、システムによって見えなくなっている部分があるというのがひとつ。もうひとつは、ぼくらがなんとなく目を背けてしまったり、いろんな理由をつけて見えなくしている・・・。そんなふうに書いたかな。

コウ:あ、そうでした。国家とか市場とかって、よくわかんないんですけど、目を背けてしまうのは、なんとなくわかる気がします。よく電車とかで、高齢者とか乗ってきたら、なんか気まずいから、みんな目をつぶって寝たふりとかしてますよね。あれって、違いますか?

マツ:たしかに、あれは「自分は疲れて眠っていて気づかないだけなんだ(もし気づいていたらちゃんと席を譲る人間なんだ)」って自分自身や周囲の人にアピールしてるのかな・・・。

コウ:そうやって目をつぶることで、若い自分が席に座ってて、年寄りが立っているという不公平がなかったことにされてるんじゃないか、と。

マツ:ほぉー、そうだね。たしかに。

コウ:それで考えたんですけど、<構築>人類学なら、そういう場合、どうするんですか?

マツ:いゃ、いきなり厳しいな・・・。まあ、目をつぶるっていうのは、目の前にあるはずの不公平から目を背けてるんだよね。「自分は疲れている」とか、「眠っていて気づいてない」とか、そんな理由をつけて自分の行為を正当化してる。でも、それって逆に言うと、年寄りが立っているという「不公平」を直視して、そのまま平気でいられる人があまりいないってことでもあるよね?

コウ:え、どういう意味ですか?

マツ:たぶん、誰もが不公平を目の当たりにしてしまうと、それを理由もなくそのまま放ってはおけないってこと。つまり、目をつぶるっていうこと自体に、じつはぼくらが不公平を解消したいという衝動をもった動物だってことがあらわれてる、と。

コウ:でも、そのことがどう関係してるんですか?

マツ:いや、不公平を解消する手段っていろいろあるんだと思う。でも、連載のなかで考えてきたのは、外部から強制的に不公平を解消するっていう方向だけでなくて、ぼくら自身のなかにある倫理性のようなもののスイッチを入れることが大事なんじゃないかってことだったわけ。

コウ:でも、電車で高齢者が座れるほうが公平でいいと思っていても、みんな目をつぶってしまってるわけですよね・・・。

マツ:うん。ただ、電車には、高齢者だけじゃなくて、妊婦さんとか、子づれのお母さんとか、若くても足が悪い人とか、ちょっとしか乗らない人もいれば、長い距離を乗る人もいるし、いろんな人がいるはずだよね。そんな多様な人たちのあいだに公平性を確保するって、そもそもかなり難しい。

コウ:なんか、みんなの必要性をポイント化して、ポイントが高い人だけが座れるようにするとか??

マツ:でも、たとえそういう仕組みをつくっても、たぶん抜け落ちる部分ってすごくあるし、たとえば、それに違反している人を排除するには、各車両に警備の人を配置したり、違反者にペナルティを科したり、すごいたいへんなことになるよね。

コウ:まあ、そうですね。

マツ:でも、じつは社会主義の国って、そういうことをやろうとしたんだと思うんだよ。国家の巨大な行政組織をつくって、強制力をもたせて公平さを人為的に管理するっていう感じで。

コウ:へぇー、それでうまくいかなかった・・・。

マツ:膨大なコストがかかるし、その割にその管理をする人のさじ加減ひとつで変わってしまうというか・・・。さっきの座席のポイント制にしても、70代の高齢者と、妊婦さんとをどちらに高いポイントを付与するか、本来、一律に決められることじゃないよね。でも、そういうシステムをつくるときは、なにか基準を決めてしまわないといけない。それって、すごく恣意的になると思う。それが社会主義に限らず、国家というシステムの限界だよね。

コウ:けっこう難しいですね・・・。

マツ:じゃあ、逆に市場経済型だったら、座席に座れる人って、どうやって決められると思う?

コウ:えーと、座席に座る人は高い切符を買って、立っていてもいい人は切符を安くするとか?

マツ:そうだね。新幹線のグリーン車とか、飛行機のファーストクラスとかって、似たような考え方だよね。快適に過ごす必要性の高い人は、それだけ高い値段を払ってもいいと思うはずだ、と。

コウ:この方式ならほとんどコストなんてかかんないし、必要性に応じて自分で選択できるから、みんなハッピーなんじゃないですか?

マツ:でも、それには考えられていない前提があるよね。みんな最初から同じだけお金をもっていれば、いいかもしれないけど。そもそもファーストクラスに乗る人って、必要性が高いというより、たんにお金持ちなだけなんじゃない?

コウ:高齢者でもお金のない人は、安い切符で我慢しようとするだろうし、若くて元気でも裕福なら高い切符を買って、座席に座っていこうとする、と。それが、ほんとに公平な状態なのかって、ことですよね・・・。

マツ:そのとおり。国家や市場によって公平性を確保しようとすると、けっこう「やってる感」はあるんだけど、大きな限界があって、むしろこういうシステムが導入されてるから、もう公平さは確保されています、って逆に不公平を見えなくしてしまうんじゃないかな。

コウ:じゃあ、どうしたらいいんですか?

マツ:だから結局は、ぼくらが日常的なコミュニケーションのなかで、公平さのバランスをとろうとする感覚にスイッチを入れて、臨機応変に対応することがいずれにしても必要になってくると思うんだ。

コウ:でも、それができないから、こんな話をしてるんじゃないですか。

マツ:そうだね。もちろん限界はある。ただ、コウくんがそうやって電車のなかの不公平を感じていること自体が、すごく意味があると思うんだよ。強制的なシステムや市場の価格メカニズムが入っていれば、たぶんそんなこと感じる必要もないってみんな思ってしまうんじゃない? あの老人、立ってるけど、ポイントが低いんだとか、自分で安い切符を選んだんだとかって。

コウ:まあ、そうかもしれないけど・・・。

マツ:だから、<構築>人類学がやろうとすることって、ほんのささいなことだけど、電車のなかに「優先席」をつくるくらいのことなのかもね。「優先席」って、強制力はないし、価格が違うわけでもないよね。でも、やっぱり優先席に座ってて、高齢者が目の前に来たら「気まずさ」はふつうの席より大きいよね。

コウ:たしかに、優先席のほうが譲り合ったりしてるかもしれないですね。

マツ:ちょっとしたことで、不公平が無視しづらくなる。あるいは、若者がそのまま座っていたら、周囲の人のほうに「なんて図々しいんだ」って、ある種の倫理性のスイッチが入る。それだけでも大きいと思うんだ。次、自分が座っていたら、あんなみっともないことはよそうってなるかもしれない。

コウ:じゃあ、いまのままでいいってことですか?

マツ:公平さが実現したと思ってしまうと、たぶんその瞬間から公平さのバランスが崩れていく。むしろ不公平なことがあるってみんなが感じてるくらいの状態のほうが健全なのかもしれない。電車のなかって、ある意味、不公平さが表面に出やすい場だと思うけど、世のなかには、あまり見えなくて意識されていない不公平がたくさんあるよね。そこで、国家や市場に頼りすぎず、ぼくら自身の行為のレベルにとどまって、公平さのバランス感覚を呼び覚ましていく。それってそれなりに重要なんじゃないかな。

コウ:なんか、わかったような、わからないような・・・。いいんですかね、ほんとにそれで。

マツ:たぶん、だめだと思う。

コウ:えー? だめなんですか?

マツ:それで満足したら、終りだよね。まだどっか不十分だと思って、次に進んでいかないと。

コウ:じゃあ、<構築>人類学、まだつづくんですか?

マツ:いやっ・・・つづけるつもりなかったけど。やんないといけないのかな・・・。

コウ:また反省会、おつきあいしますよ〜。

(完)

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松村圭一郎(まつむら・けいいちろう)

1975年、熊本生まれ。立教大学社会学部・准教授。エチオピアやザンビアなどアフリカの農村部を中心にフィールドワークを続ける。富の所有や分配、貧困や開発援助の問題などを研究。主著に『所有と分配の人類学』(世界思想社、2008)、『基本の30冊 文化人類学』(人文書院、2011)。
KYOTO的では、28回にわたって「エチオピア的」を連載した。

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