<構築>人類学入門

第31回 第2シリーズ、はじめます

2012.06.14更新

「そもそも」の話から、またはじめたいと思う。
文章を書いたり、考えたり、人に教えたりする、「学問」という営みについて。

大学などにいる「学者」や「専門家」といわれる人たちは、いったい何をしているのか。
この社会のなかで、何をなしうる人たちなのか。
いま、その根本的な部分が問われている。

学問的な「論文」に最初にふれたのは、高校生のころだったと思う。
祖父の書棚にあった大学の論文集を手にとったときだ(あとで「紀要」というものだと知った)。

それまで読んできた本とはまるで違う文章に、とても驚いた。
まず、やたらと注が多い。
他の論文や文献などが、たくさん引用してある。
そもそも、いったい何が言いたいのか、よく理解できない。
「なんか変だな」という印象をもったことを覚えている。

それから年月がたち、自分も「論文」を書くようになった。
学問の世界で常識とされる形式にそって、注をたくさんつけ、いろいろと引用をしながら、「論文らしい文章」を書く術を身につけてきた。

いまは、それが大切な手続きであることも理解している。
学問は、多くの先人が積み上げた試行錯誤のうえに成り立っているからだ。
ひとつひとつのブロックを正確に積み上げるためにも、自分が誰のどういった考えのうえに、どんなブロックを重ねようとしているのか、確認する作業は欠かせない。

これまでの連載では、
基本的に文献の引用をしてこなかった。
もちろん、すべて自分で考えたというわけではない。
考え方としては、誰かがどこかに書いているようなことばかりだ。
それでも、できるだけ自分の経験にねざした言葉で表現しなおそうと、心がけてきた。

表現行為には「人に伝えること」と「自分を高めること」の両面がある。
たとえそれが他人の考えの「語りなおし」に過ぎないとしても、みずからの身体から「ことば」をつむぎだして、人に伝えたいという欲求が、そこにはある。
そうして「ことば」と向き合うことでしか、自分の考えを深めることもできない。

学問の世界で育まれてきたアイディアを、どう伝わる「ことば」にするのか。
その「ことば」の模索をとおして、いかに学問のアイディア自体を洗練させ、あたらしい社会/世界を構築する足場にしていくのか。
それは、この連載で一貫して追究してきた課題でもある。

ただ、「ことば」を操ることには、躊躇もある。
新聞やテレビ、ネットや書籍など、いまさまざまな場で膨大な「ことば」が語られている。
原発、経済、生き方、健康、教育、安全保障、政治・・・。
相反する意見がそれを解きほぐす手がかりもないまま、世のなかに放り出されている。
こうやって「ことば」を書きつづることも、むやみに「ノイズ」を増やすだけかもしれない。

去年の震災のあと、誰もがなんの疑いもなく過ごしてきた「日常」を、そのまま続けてもよいのか、ためらいを覚えたと思う。
それまでと同じ一歩をまた同じように踏み出してよいのか、戸惑ったと思う。
一連の出来事は、何よりもまずぼくらの「あたりまえ」の根拠を大きく揺さぶったのだ。

あのとき、大学の授業の開始も1カ月遅れた。
大学で研究や教育にたずさわる者として、震災後に再開された授業のなかで、論文や本などにつづる文章のなかで、何をどう語り、書くべきか、自問をくり返してきた。
人類学を学び、実践してきたことの理由を、あらためて考える必要に迫られてきた。

いま学問をする人間が「ことば」をつむぐ意味は何か。
それは誰に向けて、何をどう実現しようとするものなのか。
その問いに答えをみいだすにも、「ことば」と向き合うことからはじめるしかない。

<構築>人類学入門、またしばらくお付き合いください。

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松村圭一郎(まつむら・けいいちろう)

1975年、熊本生まれ。立教大学社会学部・准教授。エチオピアやザンビアなどアフリカの農村部を中心にフィールドワークを続ける。富の所有や分配、貧困や開発援助の問題などを研究。主著に『所有と分配の人類学』(世界思想社、2008)、『基本の30冊 文化人類学』(人文書院、2011)。
KYOTO的では、28回にわたって「エチオピア的」を連載した。

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