<構築>人類学入門

第32回 大学1

2012.07.27更新

学問を学ぶ場である大学。
その「学び」には、どんな可能性があるのか。
最初に、その問いから考えてみたい。

大学に入るために、多くの人は「受験」という関門をくぐる。
入学試験などで一定の点数に達しなければ、大学で学ぶことはできない。
受験生は、膨大な時間を使って、テストで点数をとるための勉強をする。

この「受験勉強」では、テストの点数が高い順に評価される。
成績のよい人が「かしこい」とされ、成績が悪いと「落ちこぼれ」となる。
でも残念ながら、それは「仮の話」に過ぎない。

大学が試験を課す理由は、簡単だ。
受験生に順番をつけるため。
なるべく単純な仕組みで人間を序列化して、学生を選別するため。
そこで複雑な人間の能力の一部だけを仮の判断材料として点数化している。

テストの問題は、正解と不正解が明確にわかるものに限定される。
点数化するのに適した「問い」だけが出題される。
複数の解答が可能な設問や議論のわかれている問題は避けられる。

でも、世のなかには正しい答えがひとつだけの問いなど、ほとんどない。
むしろ正解がないような問いを考える能力のほうが大切だったりする。

テストの成績は「仮のもの」に過ぎない。
まずは、それを認識しておく必要がある。

社会のなかには、そんな「仮のもの」があふれている。
原発の安全基準は、想定されたリスクの範囲内での仮の基準に過ぎなかった。
格付けやランキング、世論調査なども、限られた指標にもとづく部分的なものでしかない。

大学での学びは、世に出回っている情報の多くが「仮のもの」だと知ることからはじまる。

もちろん学問の世界にも「仮のもの」はたくさんある。
ある前提のなかで仮の答えを出していくことが、学問の目的の一部でもある。
でも、学問の世界に身をおいている者であれば、それらがどれも暫定的な「答え」であることを意識しているはずだ。

ある種の情報の「正しさ」は、その情報自体の真偽だけでは定まらない。
その「正しさ」を成り立たせている前提条件を問わないといけない。
そうやって情報の周りを掘り下げていくと、ある次元では正しいと言えても、別の次元ではそう言えなくなる。

大学では、授業で聞いた話が他の授業の話と食い違うことがある。
かならずしも教員のあいだで知識の「量」に差があるからではない。
知識を支える枠組みをどのように設定するかで、話が変わってくるのだ。

その意味では、「仮のもの」の対極に「ホンモノ」があるわけでもない。
どんどん掘り下げていけば、究極の正解に到達するわけでもない。

重要なのは、ある情報が他の情報とどのように関係しているかを考えること。
その「もっともらしさ」をつくりあげている情報どうしの関連性を見いだすことだ。

「知識」とは、特定の情報を知っているかどうか、ではない。
複数の情報の結びつきをとらえ、それらを関連づけながら暫定的な結論を出す。
別の情報がみつかれば、結論をどんどん更新していく。
それは、おのずと○か×かという「点」ではなく、考える「プロセス」になる。

最近、授業中に課題などを出すと、学生はすぐにスマートフォンを出してネットで調べはじめる。
それ自体、別に悪いとは思わない。
むしろ、ある情報を知っていたり、正確に覚えていることが、ますます意味をもたなくなった現実をよくあらわしている。

いつでもどこでも「情報」は手に入る。
だとしたら、ネットの情報をどのような視点で整理し、そこからどうやって自分なりの「答え」を導き出していくかが重要になる。

「問い」には、いくつもの答えがあり、いくつもの答えに至る道筋がありうる。
普遍的な「真理」をそのまま学生に覚えさせることが大学の役目ではない。
さまざまに食い違う情報のなかから、自分にとっての「正解」を探しだす力をつける。

そんな考えるプロセスを大切にする大学で、その学びの最初の関門が正解がひとつだけのテストの点数であることは皮肉だ。

ネットをそのまま書き写して「うまくやった」と思っている学生をみると、複雑な気持ちになる。
どこにボタンの掛け違いがあるのか。
次回も続けよう。

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松村圭一郎(まつむら・けいいちろう)

1975年、熊本生まれ。立教大学社会学部・准教授。エチオピアやザンビアなどアフリカの農村部を中心にフィールドワークを続ける。富の所有や分配、貧困や開発援助の問題などを研究。主著に『所有と分配の人類学』(世界思想社、2008)、『基本の30冊 文化人類学』(人文書院、2011)。
KYOTO的では、28回にわたって「エチオピア的」を連載した。

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