<構築>人類学入門

第34回 大学3

2012.09.11更新

3年生の秋、ある日から突然、ゼミ生がリクルートスーツ姿になる。
学内で企業の就職説明会がはじまるのだ。
毎年、教室を間違えたかと思って、ぎょっとしてしまう。

みんな髪も黒く染めて、表情までかしこまる。
いつも時間を延長してやってきたゼミも、定時になるとほとんどが退席していく。
こうして「就活」の時期がくると、大学はその役目を終えたかのようになる。

4年生の卒業論文に向けたゼミも、壊滅的だ。
企業の面接や選考試験は、もっぱら平日の授業時間帯に入る。
もとより、みんな就活のことで頭がいっぱいで、授業どころではない。

5月の連休が明けるころには、内定をもらう学生もでてくる。
学生どうしのあいだでは、髪を茶色に染めなおしたら、内定が出たと勘づくらしい。
そして、内定を手にした学生から、今度は「卒業旅行」に行くようになる。

「卒業旅行」といえば、卒業前の春休みに行くものだと思っていたら、どうも違うらしい。
内定がでたら、夏休み前からたびたび海外や国内の旅行に行くようだ。

就職さえ決まれば、学生にとって大学にいる意味は最後の自由時間を満喫することくらいになる。
こうして就活がはじまる3年秋から1年以上のあいだ、大学は教育のための時間を失う。

ただ、じつは就活の前から、すでに大学という教育の場は「やせ細って」いる。

東京の大学で教えるようになって、学生が夕方からのゼミにもかかわらず、教室に入ってくるとき「おはよう〜」と挨拶しているのが、気になっていた。

バイトなどで時間帯に限らず「おはようございます」と言っている挨拶が、そのまま学生どうしの挨拶になっているのだ。
ゼミ発表でバイト先のことを話すのに「お客様が・・・」という学生もいる。

大学は、社会の論理から距離をおいて物事を考える場ではなく、バイト先の延長でしかないかのようだ。

大学の「教育」には、多様な側面と厚みがある。
学生時代にバイトをすることも、留学や旅行をすることも、サークルや恋愛に熱中することも、大きな意味で大学という「場」の教育の一部をなしている。

授業などで教員が関わる部分は、せいぜい3分の1くらいだろう。
それで、いいと思う。

スケジュールどおりに与えられた課題をこなすだけではなく、自分で自由な時間を何に使うかを考えること。そこで未知の「他者」と出会うこと。
それらは、いずれも大切なことだ。

では、何が問題なのか。

それは、学生たちが、バイトや就活という社会の枠組みにあまりにうまく適応して、何の違和感もなく自分のおかれた状況を「やり過ごしている」ようにみえることだ。
少なくとも「群れ」としての学生たちの姿は、そうみえる。

それは、学生の責任ともいえない。
「大学」がそうやってやり過ごされる場になっていることのほうが問題なのだろう。

大学ってこんな感じでやれば卒業できるし、こうやって就活していると就職できるし、社会人の常識はこうなんだよね、と学生たちはすばやく察知して、そこにみずからを順応させていく。

彼らにとって、自分がなぜそういうモードを採用しているのか、モードそのものの意味や是非を問うたり、他にどんな可能性があるのかを探ることは、所詮、無駄なことでしかない。

現実には、彼らの足元には複雑で深刻な問題がたくさん絡まっている。
それでも、受験勉強の意味を問うたり、疑問に感じることがよい点数をとるためには時間の無駄であるように、彼らは迷いや葛藤に足をとられることを巧みに避けているようにみえる。

もしそうであれば、そこに成長の契機はない。

迷いや葛藤のなかで、人は自分があたりまえだと思ってきた「前提」を問われ、考えはじめる。
そうして「前提」や「常識」を壊すことで、別の可能性に目覚めることができる。
「成長」とは、そういうプロセスだ。

前回書いた「立体的な思考」の重要さも、そこにある。
物事を立体的にとらえるためには、まず自分の「常識」が多くの可能性のうちのひとつに過ぎないことを意識する必要がある。

自分や周囲の状況を俯瞰してとらえたり、そこから自分が立っている足場そのものの意味を問うたり、別の角度から光をあてることが、創造的な仕事をするための「考える力」の土台になる。

大学という場に高校までとは異なる教育の意義があるとしたら、学生ひとりひとりに自分自身や社会のあり方を根底から問うための時間ときっかけをより与えられることだろう。

授業に限らず、さまざまな場でそれまでの信念を覆されたり、自身や社会への疑問や葛藤を感じたりするためには、ある程度の自由な時間と、多様で複雑な「他者」との出会いが欠かせない。
容易ならざる「他者」は、自分が何者なのかを問いかけてくる存在だからだ。

しばしば大学は、浮き世離れしているとか、世間の実情からかけ離れていると批判されてきた。
しかし、それは一般社会と同じ論理でそのまま何の違和感もなく過ごしてしまえるような場に、成長の契機が乏しいからでもある。

大学は、社会のなかで「異の空間」でありつづける必要がある。
何かがよくわかるような場ではなく、いったんよくわからなくなったり、疑問が芽生えたり、自分自身を問われる場に身をおいたほうが、人は成長できる。

就活を乗り越え、単位をそろえて、晴れやかな顔で卒業していく学生の姿は、とても微笑ましい。
それでいいのかもしれないと思う一方で、不安も感じてしまう。

自分は彼らのなかの何かをちゃんと壊せただろうか、と。
彼らはあらたな自己や世界のあり方に触れることができただろうか。

大学がその役割を果たすには、そこが高校までの教育と社会人生活のあいだのひとつの断絶として、根本的な問いを喚起する深い沼になっている必要がある。
学生たちがそこで足をとられ、立ち止まる時間と場所があれば、たぶんそれでいい。

いまの大学は、表面的にはそれと真逆の方向にみずからを変えつつある。
大学や学部ごとに明確な教育目標を掲げ、その目標達成に向けて整合性のあるカリキュラムや教育体制をつくり、前もってシラバスで明示された内容どおりの授業を展開する。

誰がみても明瞭でわかりやすく、情報公開が進んでいて、一貫性や透明性のある大学像。
現在、全国の大学が外部評価制度をとおして「改革」されている方向性は、そんな一元化された予定調和的な大学の姿だ。

あたかも、どの店に入っても予想通りの料理が食べられ、何の不快さも、違和感も感じることなく、「大学教育」というメニューを消費して店をあとにすることが目指されているかのようだ。

もちろん、大学という場のある種の「深み」は、そう簡単には消えないだろう。
それが消えたら、「教育」そのものが消えるのだから。

「教育」って、たぶん何かが教えられていることではない。
次回以降、もう少し考えていこう。

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松村圭一郎(まつむら・けいいちろう)

1975年、熊本生まれ。立教大学社会学部・准教授。エチオピアやザンビアなどアフリカの農村部を中心にフィールドワークを続ける。富の所有や分配、貧困や開発援助の問題などを研究。主著に『所有と分配の人類学』(世界思想社、2008)、『基本の30冊 文化人類学』(人文書院、2011)。
KYOTO的では、28回にわたって「エチオピア的」を連載した。

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