<構築>人類学入門

第36回 教育2

2012.11.15更新

大学教育の質の低下が叫ばれている。
少子化にもかかわらず増えすぎた大学では、高等教育にふさわしい水準が保たれていないという。

だから、大学の4年間でどんな「人材」を育てられるのか、教育の「質の保証」をせよ、と求められている。

「人間を育てること」が、それほど容易でないのは、誰もが認めるだろう。
こういう教育をしたら、確実にこんな人が育てられる、なんて方法があれば、みんなとっくに実践している。

すくなくとも、大学が「こんな人材を育てます」と宣言して、多少カリキュラムをいじったところで、それがすぐに実現できるわけではない(それでも多くの大学は、目下、その「宣言」づくりに追われている)。

自分のことを振り返っても、成長のきっかけとなったと感じるのは、偶然の出来事のほうが多い。
体系だったプログラムをきちんと終えたから、何かを習得できたとは思えない。

なぜそう思うのか?
ひとつには、「教育」が特定の場だけに限定されていないからだ。

教育問題といえば、ふつうは「学校」の問題だとされる。
小学校から中学、高校、大学までの一連の教育機関で行われることだと考えられている。

でも、人間としての成長が学校という場だけに限られていないことは、誰もが身をもって経験してきたはずだ。

小学校のとき親に怒られて初めて家出をしたこと、高校受験の重圧から逃れるように小説をむさぼり読んだこと、大学のサークルの友人と明け方まで語りあったこと・・・。

いずれも学校の外側での出来事が、人生にとって重要な意味をもってきたように思える。

子どもにとって、学校の内と外の経験は連続している。
そのさまざまな経験が結びついて、人間を成長へと導いていく。

こうしてそれぞれの子どもの経験の場が学校の外に無数に広がっているからこそ、学校での教育の意味は多様な幅をもったものになる。

学校の外側での経験は、誰ひとりとして同じではない。
その違いゆえに、学校で用意されているプログラムの「効き方」も変わってくる。
だから「学校」だけをどんなに変えても、教育問題は解決されない。

家庭や地域だけでなく、ふつうに会社に勤めている人や、店で商品を売っている人、ネットの世界まで、子どもの経験を構成するあらゆる人びとが教育問題の当事者だといえる。

学校関係者が教育に多くの責任を負っているのは当然だ。
ただ、もし社会全体が「教育のことは学校でなんとかしろ」と考えはじめたら、学校自体の教育の機能も失われてしまうだろう。

「教育」というプロセスには、社会のさまざまな磁場が作用している。

大学の学生のなかには、企業がどのような人材を採用するかを強く意識しながら、授業にのぞむ者もいる。

逆にいまの社会に欠けている何かを敏感に感じとりながら、自己のあり方を模索する者もいる。

いずれにしても、学生たちは、すでに社会のさまざまな風にもまれながら、大学という場にいる。

大学の授業は、その社会への感受性の違いを受け止める作業でもある。

大学には、「授業評価アンケート」といって、講義科目の受講者にその授業についての意見をきく制度がある。

毎年、その結果を見るたびに当惑してしまう。
コメントのなかに正反対の意見が混在しているからだ。

「いろんなことを考えさせられた」という意見もあれば、「難しくて理解できなかった」というものもある。

「とても満足した」という回答がそれなりにあったとしても、「まったく満足できなかった」という回答がゼロになることはない。

たとえ同じ場で同じ話をしていても、けっして同じようには伝わらない。
この「当惑」から、教育とは何かを考えさせられてきたように思う。

教育は、単純にモノを右から左に移しかえるようにはいかない。
その理由のひとつは、受け手そのものが多様だからだ。
そして、受け手がどう受け取るかを与え手側が自由にコントロールできないからだ。

では、教壇に立つ人間は、何をどう伝えたらいいのか?
教育における「伝える」という行為を、どのように理解したらいいのか?
次回も続けよう。

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松村圭一郎(まつむら・けいいちろう)

1975年、熊本生まれ。立教大学社会学部・准教授。エチオピアやザンビアなどアフリカの農村部を中心にフィールドワークを続ける。富の所有や分配、貧困や開発援助の問題などを研究。主著に『所有と分配の人類学』(世界思想社、2008)、『基本の30冊 文化人類学』(人文書院、2011)。
KYOTO的では、28回にわたって「エチオピア的」を連載した。

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