古代文字で写経

サンスクリット語で般若心経 第3回 後編

2014.04.20更新

*前編はこちらから


観自在菩薩についてもうちょっと

 さて、遥か遠くまで見渡すことができる菩薩なので「アヴァローキテーシュヴァラ」は、「観ることが自在な菩薩=観自在菩薩」と訳されました。

 この観音様、なぜ遥か遠くまで観るのかというと、苦しんでいる人、困っている人を探す ためです。

 観音様は人々の苦しみを取り除き、そして福を与えてくれる菩薩です。ところが苦しんで いる人は「は〜い、わたし苦しんでま〜す」なんてなかなか言わないし、苦しんでいる姿も見せない。誰にも告げず、ひとりで苦しみに耐えている。だから観音様が、その神秘の眼をもって、苦しんでいる人を探して助けてくれるのです。

 おお、なんと『般若心経』にぴったりの仏さま!

 こんなすごい観音様なのに、なんと「仏」ではないのです。それが最後の「ボーディ・サットヴァ(bodhi-sattova)

「ボーディ」、呪文の最後に出てきましたね。「ボーディ・スワーハー」ってやつです。意
味は「悟り」。「サットヴァ」というのは「生命ある存在」・「有情」・「人」。

 ですから「ボーディ・サットヴァ(bodhi-sattova)」は「悟りを求める人」です。「求道者」 と訳されたり、音(おん)そのままに「菩薩」と訳されたりします。

 菩薩というのは「仏陀=悟った人」になる前の段階の修行中の方です。観音様ほどの方ならば、とうに悟っているはずなのですが、前回もお話したように日本の仏教は大乗仏教ですから、自分だけが悟って仏陀になればいいというものではない。

 菩薩は、なんらかの誓いを立てて、その誓いが達成されたときに始めて仏陀になる!と決 めた方たちです。

 観音様の場合は「すべての人を救い果たしたら仏陀になる!」という誓願を立てられまし た。「人々が私の名を呼び、助けを求めるならば、その衆生の苦しみを救う」という誓いで す。僕たちがまだ苦しんでいる限りは、観音様も仏陀になれないのです。

 菩薩とは、僕たち衆生を救う方なので、人を助ける人を「菩薩のような人だ」なんて言ったりしますね。


第3の部分

 さて、最後の第3の部分です。

第3回

 単語は4つですが、この中の一番長い単語、「プラジュニャーパーラミター(prajñāpāramitā)」 は前回やりました。「般若波羅蜜多」です。だから今回は説明省略。

あとは3つです。

第3回

 今回の朗誦を YouTubeで聴かれた方、この第3の部分、最初の「ガンビーラーヤーン」も 「チャリャーン」も「チャラマーノ」も、なんとなくふざけた感じしませんでした? むろ んふざけてはいないのですが、ふざけて聞こえます。

 最初の「ガンビーラーヤーン(gaṃbhīrāyāṃ)」は「深遠なる」という意味なんです。おお、 すごい!こんなすごい意味の言葉をふざけているなんて、そんなふざけたこと言っちゃいけません。

 で、もうひとつのチャラチャラ聞こえる「チャリャーン(caryāṃ:修行・行)」と「チャラマーノ(caramāṇo:行をしながら)」ですが、元は同じで「car(←カーじゃないよ「チャル」)」
です。

 ちょっと文法の話をします。読んでいて「わかんねえ!」って方は、飛ばしても全然問題 ないので早回しでどうぞ!

 観音様のところで「lok(観る)」を動詞のルートとお話しました。ルートというのは「根っこ」ですね。「チャリャーン(修行・行)」と「チャラマーノ(行をしながら)」の場合は、 「car(チャル)」がルートです。

 ちなみに、ルートという言葉は、数学のルートと同じなので、書くときには「√car」とか 「√lok」とか「√」を使って書きます。記号の使いまわしです。

√carの意味は「動く」です。その「動く」から「行」とか「行をする」という意味が生ま れてきます。

 サンスクリット語の動詞を覚えるときですが、ルートである√car に「-ati」をつけた形で 覚えます。「car-ati(チャラティ)」とか「lok-ati(ロカティ)」とかね。これが三人称単数 現在形の形です。

でも、どうせすべてに「-ti」が付くので、これを無視して「チャラ」で覚えたりもします。 で、適当に語呂合わせなんかもしちゃったりします。

√car は「動く」が基本の意味なので「チャラチャラ動く」なんて覚えます。


全体の意味

 では、全体の意味です。

「一切智に礼拝いたてまつる。聖なる観自在菩薩が般若波羅蜜多の行を行じたまいし時・・」


では、写経をしましょう。

 今回もミクちゃんに朗誦してもらってますので、どうぞご一緒に〜!

第3回


観音様について、さらにもうちょっと

・・・というわけで写経もされたところで、今回はまだまだお話したいことがいっぱいあるの ですが、あまり長くなると Web は大変なので、そのうち2つだけをお話しますね。まずは 「観自在菩薩」についてです。

 さっきはわざとスルーしましたが、観自在菩薩が「観音様」って変でしょ。観自在菩薩の どこにも「観音」の「音」が入っていない。

 これは「観自在」と「観音」とで訳者が違うからなのです。「遥か遠くまで見渡すことがで きる菩薩」という意味の「アヴァローキテシュヴァラ」を「観自在(観ることが自在な)」 菩薩と訳したのが三蔵法師、玄奘さん。

 それに対して「観世音(世の音を観る)」と訳したのは「鳩摩羅什(くまらじゅう:以下、 クマさん)」です。クマさんは、今の新疆ウイグル自治区出身のお坊さんで、多くの経典を 訳しています。いやいや、多くの・・・どころか、僕たちが読むお経のほとんどは、こちらの クマさん訳のものです。

 クマさんが訳したので有名なのは『阿弥陀経』や『法華経』ですが、『法華経』に入っている『観音経(観世音菩薩普問品)』で観音様が有名になったので、僕たちは「アヴァローキテシュヴァラ」を観世音菩薩、観音様と呼び習わしているのです。

 たしかに浅草の観音様も清水寺の観音様も、そして観音霊場もみんな「観音」ですね。

 でも、「遥か遠くまで見渡すことができる」という意味の「アヴァローキテシュヴァラ」を 「世の音を観る」って変でしょ。だいたい、音を観るなんていうこと自体が変。

 で、これについてはいろいろあって、ひとつは前にも書いた、苦しんでいる人は、苦しん でいる姿を人には見せないってやつ。でも、かすかな呻き声をあげたり、ため息はついた りするかも知れない。「音」ですね。

 そんなかすかな音をも聞き逃さず見つけて救い出す、だから観世音だというのです。観音 様には、声なき声を聴いたり、遠くの音を聞いたりすることのできる「天耳(スーパー・ イヤー)」があるのです。

 でも、さすがにこの訳には「ちょっとなぁ」という意見が当時からあったらしく、そんな んでクマちゃんは「よっしゃ。俺の訳が間違ってるかどうか、死後に判断してくれ」なん て豪語したのです。

「死んだら火葬にしてくれ。もし、俺の訳が間違っていたら、俺の体はすべて灰になるだ ろう。もし正しかったら"舌"だけは残るぜ!」

 で、実際に舌が残ったという。

 ちなみに近頃の研究では、この語の中に「音を観る」という意味があるなんていう説もあります(詳しくは岩波文庫『般若心経・金剛般若経』などをどうぞ!)。


南無一切智

 今回の連載の最初に、サンスクリット語から漢文に翻訳されたときに省略されたものがあ
り、それがおもしろいと書きました。

 ここまでお読みになられた方はもうおわかりだと思いますが、省略されているのは最初の 「南無一切智」と観自在菩薩に付く「聖なる」です。

 最初の「南無一切智」は、一切の「智慧(プラジュニャー)」に対する礼拝の言葉です。お 経の最初に礼拝対象に向かって礼拝の辞を述べる、こんな大切な部分が省略されています。

おお!

 だいたい、この経典の題名の由来となる般若も「智慧」を意味しますし、そういう意味で も『般若心経』では「智慧」はとても大事なはずなのに、その智慧の礼拝の部分を省略し てしまうなんて、なんて勇気のある三蔵法師、玄奘さんでしょう。

『般若心経』の中では「プラジュニャー(智慧)」ということばは何度も使われています。 しかし、三蔵法師は、そのほとんどを「智慧」や「知」などとは訳さず、音訳の「般若」 のままで使っています。

 それは「プラジュニャー(智慧)」を「知」や「智」と訳すと中国の人たちには誤解を与え てしまう、あるいは「プラジュニャー」の真意が伝わらないと三蔵法師が考えたからでは ないでしょうか。

 ちなみに昔の中国語の「智」のイメージはどんなだったのだろうということは考えてみる と、たとえば昔の辞書である『説文(せつもん)』には「知は詞なり」とあります。また「智」 に関しては「識る詞なり」とあります。

 中国人にとって「智」や「知」は、「詞(ことば)」や「意識」と深い関係があった。これ はいまは世界中がそうですね。「ことば」や「自己意識」を離れた「知」というものの存在 がなかなかわからない。

 しかし、『般若心経』における「知」=般若(プラジュニャー)というのは、ことばや意識 を超越した智慧です。だから誤解されては困る。プラジュニャーも言葉や自己意識で理解 できる智だと思われては困るわけです。そこで三蔵法師は「般若」を「知」と訳さないこ とに決めたのではないでしょうか。

 そして、そのゆえに冒頭のかなり重要であろうと思われる「南無一切智」も訳出しなかっ
たのではないか、そんな風に思うのです。

 なんとも大胆な三蔵法師!


※もうひとつ省略されている「聖なる(観自在菩薩)」については次回に!

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安田登(やすだ・のぼる)

1956年千葉県銚子市生まれ。高校時代、麻雀とポーカーをきっかけに甲骨文字と中国古代哲学への関心に目覚める。高校教師をしていた25歳のときに能に出会い、鏑木岑男師に弟子入り。能楽師のワキ方として活躍するかたわら、『論語』などを学ぶ寺子屋「遊学塾」を東京(広尾)を中心に全国各地で開催す る。また、公認ロルファー(米国のボディワーク、ロルフィングの専門家)として各種ワークショップも開催している。著書に『能に学ぶ「和」の呼吸法』(祥伝社)、『身体感覚で「論語」を読みなおす。』(春秋社)、『異界を旅する 能  ワキという存在』(ちくま文庫)『本当はこんなに面白い「おくのほそ道」』(実業之日本社)、『あわいの力 「心の時代」の次を生きる』(ミシマ社)など多数。

あわいの力

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