古代文字で写経

サンスクリット語で般若心経 第5回

2014.05.03更新

ルーパ

 今回は、『般若心経』でもっとも有名なフレーズが登場します。

色即是空」です。

・・・って半分ウソいいました。スミマセン。実は「色即是空」にぴったりのサンスクリット語原文ってないんです。じゃあ、何があるかはこれから読んで行くことにして・・・

 今回も、まずは覚えてしまいたい言葉がありますので、それを紹介しましょう。

ルーパ(rūpa)」です。大事なので赤でもう一度書きます。「ルーパ」!

 では、今回もこの「ルーパ」を5回唱えましょう。

「ルーパ」・「ルーパ」・「ルーパ」・「ルーパ」・「ルーパ」

 ちゃんと唱えましたか。

 さて、「ルーパ」の意味ですが色即是空の「色(しき)」です。

 あ、ところで色即是空の「空(くう)」、これは前回やりましたね。覚えていますか。

シューニャ」でした。

「忘れていた~」という方。さらに「どうもこういうのを覚えるのは苦手・・・」という方。そういう方は無理をせずに、いろいろ工夫をしましょう。

 で、「シューニャ」は、たとえば「靴(シュー)+猫(ニャ)」で覚えちゃいます。

第5回

 はい。いかがですか。

 今回の「ルーパ」はウーパールーパーを思い出せば、なんとなく思い出せるでしょう。

 てなわけで「色即是空」を(単語だけで)思い出すときには・・・

第5回

・・・と、こういう「形」で思い出せばよろしい! 今回のテーマは「形」です。


登場人物がひとり

 さてさて、今回は登場人物も増えます(今までは観音様だけ)。

シャーリプトラ」という人です。漢訳では「舎利子(しゃりし)」。

『般若心経』を声に出して何度か読んだ方なら、覚えている方もいるでしょう。「舎利子、色不異空・・・」とかいう流れで出てくる人です。

 知恵第一といわれる弟子のひとりです。

『般若心経』というお経は、五蘊が実は「空」であることを悟った観音様が、お釈迦様の弟子にその真髄を語るという構成になっていますが、その聞き手に選ばれたのが知恵第一の弟子であるシャーリプトラ(舎利子)なのです。

 おお、すごい奴だ。

 では、本文を~!

本文

第5回


新しい文字

 本文の中には今回も新しい文字はひとつもありません。ただ、単語の中にはあるので紹介しておきましょう。母音の「e」です。本文では前の最後の母音「-a」と、この「e」が結合して「-ai」という二重母音に変化しちゃってます。

第5回


母音

 今回の母音はふたつ。「u」と「ai」です。

「"ai"ってふたつの母音じゃん」という方もいらっしゃると思うのですが、これは二重母音といって、これでひとつの母音と考えるのです。「え~、なんで~」という方。気持ちはわかりますが、そこを突っ込んでいくと墓穴を掘ることになりますので、写経ではスルーしますっ。

第5回


結合文字

 今回の結合文字は「tra」だけなのでいいですね。パスします。


単語

第5回


●イハ(iha)
 イハは「ここ」とか「いま」という意味ですが、今回は「この世において」という深~い意味で使われています。

●シャーリプトラ(śāriputra)
 お弟子さんの「舎利子」です(前出)。

●ルーパ(rūpa)
「色(しき)」です。これも前出。

●シューニャター(śūnyatā)
 前回、「シューニャ」を「空」であるとお話しましたが、今回は「taa」がついて「空性」という抽象名詞になります。

●エヴァ(eva)
「まさに」とか「実に」とかいう意味です。英語では「really」。


全体の意味

「シャーリプトラよ。この世において『色』は『空性』であり、『空性』はまさに『色』なのある」

※この文、漢文訳の「色即是空、空即是色」とどこが違うかというと、前半の「『色』は『空性』であり」は、そのまま漢文にすれば「色空」か、あるいは「色是空」で「即」がないのです。ですから昔から、三蔵法師の「色即是空」はサンスクリット原文のどこだろう、ということがわいわいと議論されています。


写経

では、まずは今回の部分を写経しましょう。今回はちょっとですね。


朗誦

朗誦もどうぞ!

第5回


「色(しき:ルーパ)」について

 ルーパを、色即是空の「色(しき)」だとお話しましたが、でも「色(しき)」って何なのかというと、これまた難しい。

 岩波文庫(中村元・紀野一義)では「物質的現象として存在するもののこと」と解説されています。「形作る」を意味する「rūp」から作られた語で「形のあるもの」を意味するとのことです。

 また講談社学術文庫(金岡秀友)では、物質的現象とはいいながら、ルーパはあくまでも視覚の対象であり「物質」ということには言及されていないことに注目しています。すなわち人間の「感覚」の対象としての物質であって、ヨーロッパ哲学や物理学的な意味での「物質」とは違うということのようです。

 完全な感覚遮断って体験したことはないのですが、若い頃、似たような体験をしました。視覚・聴覚、そして触覚。さまざまな感覚が遮断されると、そこに「ものがある」ということはどういうことなのかということがわからなくなります。ものがあっても、ない。

 こういう状態になると心の状態も変化してきます。

 能を大成した世阿弥は、それを天岩戸神話にたとえて「言語を絶して心行所滅」であると表現しています。天照大神が岩戸に隠れたあとの闇は、視覚の闇だけでなく、あらゆる感覚器官が消滅し、心も行いもなくなった「心行所滅」の闇なのです。

 この逆が幻覚剤や催眠。ないはずのものがそこに見える。

 チャールズ・タート(Charles Tart)は、『Altered States of Consciousness』の中で、そのような状態を引き出すためのさまざまな方法を紹介していますが、その中に「夢」があります。

 たしかに「夢」は、「俺はこれを見た」ということの証明はできないけれども、確かに見ている。では、夢に出てくる「物質」は、あるのか、ないのか。

 う~ん、なかなか難しいけど、面白いでしょ。僕たちが「ある」と思っているもの、あるいは「ない」と思っているものは、実はとてもあやうい「あり方」でしか、そこにないのです。

 まさに「色即是空」ですね。


観音様の前の「聖なる」

 で、前に出てきた観音様。

 サンスクリット語では、観自在菩薩の前に「アーリヤ(聖なる)」がつきました。僕たちは「聖観音」という語などで慣れているので(『聖☆おにいさん』でも)、「ふ~ん、そうか」でスルーしちゃいそうになるのですが、これがスルーしちゃいけないのです。

『般若心経』よりも古い『バガヴァッド・ギーター』などを読んで見ると、「聖なる」はチャールズ・タートのようになかなか深い。

 クリシュナにいろいろお説教をされたアルジュナ王子が「じゃあ、あなたの姿を見せてください」というと、クリシュナは「私の姿はお前の『肉眼』では見えないんだよ」といい、それでも見たいなら「『聖なる目』をあげよう」というのです。

『聖なる目』をクリシュナからもらったアルジュナは、クリシュナを見ることができるようになるのですが、その文を読むと「聖なる」クリシュナ、「聖なる」装飾、「聖なる」武器、「聖なる」花輪、「聖なる」衣服、「聖なる」香気の香油と・・・みんな「聖なる」がつくのです。

・・・となると、この「聖なる」は、単なる「神聖などうのこうの」ではなく『聖なる目』によって見ることができるもの、逆にいえば肉眼では見えない現象だということになります。これ、さらに逆にいえば、その姿が見えるということは、僕たちは『聖なる目』を手に入れたということになるのです。

 おお、裸の王様の服みたいだ!

「へ、子どもには見えねえぜ」ってやつです。

 で、『般若心経』の観音様の前には「聖なる」がついていたでしょ。この観音様が、ここで出現したということは、この経典を読んで、ガテー、ガテーを唱えつつ、観音様の存在をビビッドに感じることができる人は、『聖なる目』も手に入れたということなのです。
では~。

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安田登(やすだ・のぼる)

1956年千葉県銚子市生まれ。高校時代、麻雀とポーカーをきっかけに甲骨文字と中国古代哲学への関心に目覚める。高校教師をしていた25歳のときに能に出会い、鏑木岑男師に弟子入り。能楽師のワキ方として活躍するかたわら、『論語』などを学ぶ寺子屋「遊学塾」を東京(広尾)を中心に全国各地で開催す る。また、公認ロルファー(米国のボディワーク、ロルフィングの専門家)として各種ワークショップも開催している。著書に『能に学ぶ「和」の呼吸法』(祥伝社)、『身体感覚で「論語」を読みなおす。』(春秋社)、『異界を旅する 能  ワキという存在』(ちくま文庫)『本当はこんなに面白い「おくのほそ道」』(実業之日本社)、『あわいの力 「心の時代」の次を生きる』(ミシマ社)など多数。

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