へなちょこ古代史研究会

第6回 きっと「あいだ」が大事なんです かやはらレポート②

2012.01.11更新

ミシマガジンの読者のみなさま

あけましておめでとうございます。
昨年、どうにかこうにかよちよち歩きを始めた古代史研究会ではありますが、年があらたまったからといって、「へなちょこ」が「一人前」に脱皮するなんてことはないわけでございまして、あいも変わらず「へなちょこ」ぶりを発揮し続けることになると思います。
とはいえ、今年は古事記編纂1300年を迎える年でもありますし、「へなちょこ」なりに古代の面白さをお伝えしていきたいと思います。本年も、どうぞ温かい目でへなちょこ古代史研究会をよろしくお願い申し上げます。

第38回ミシマ社の話

『計画と無計画のあいだ』(河出書房新社)

さてさて、昨年秋に刊行されたミシマ社長の著書『計画と無計画のあいだ』は、みなさんお読みになりましたか?

ミシマさん曰く、「計画と無計画のあいだ」にこそ自由がある。
計画にがんじがらめになっていてはとかく窮屈だ。かといって、何の制限もない完全なる野放図は危険きわまりない。勇気をもって計画を飛び越えつつも、神経を研ぎ澄まして迫り来る危険は敏感に察知する。そんな状態においてこそ、人間はもっとも躍動し、自由な着想を得られる、というのが三島さんの主張である、はずだ。

いやはや何ともミミガイタイ・・・。思えば、『計画と無計画のあいだ』の発売日に、我らが「へなちょこ古代史研究会」の連載はスタートした。その始まりたるや、何とも、何とも、何とも・・・無計画。
ミシマさん流に言えば、「計画と無計画のあいだ」どころか、計画性とまったく無縁のこの研究会は、危なっかしくて仕方がないのかもしれないけれど、「古代人もきっと計画などとは無縁であったに違いない」と、一年の計を立てるのがよしとされる新年の始まりに、無計画であることを誇らしくうそぶいてみるのも、まぁ一興というところでしょうか。

第6回へなちょこ古代史研究会

『生物と無生物のあいだ』(福岡伸一、講談社現代新書)

ところで、『計画と無計画のあいだ』が、福岡伸一先生の『生物と無生物のあいだ』からタイトルを拝借したことは、ミシマさんの本の「あとがき」に触れてあるとおり。
福岡先生は、物質(=無生物)の集合体であるはずの生物が、なぜ生命を宿すことになるのか、その謎に迫っている。その「あいだ」に何とも神秘的な世界が広がっていることに、驚きを受けた人も少なくないはずだ。

そうかそうか、「あいだ」が大事なのね。
「計画か、無計画か」「生物か、無生物か」のどっちかではなくて、その中間地帯であり、両者をつなぐメカニズムであり・・・。
「白黒はっきりさせずに"あいだ"の曖昧さを許容するのは、日本文化の良さでもあるよなぁ」などと、ひとり思っていたら、書店でふとある本が目に飛び込んできた。

『考古学と古代史のあいだ』(白石太一郎著、ちくま学芸文庫)

第6回へなちょこ古代史研究会

『考古学と古代史のあいだ』(白石太一郎、ちくま学芸文庫)

ふむ、「考古学」と「古代史」の「あいだ」、ですか・・・。

そのふたつをはっきりと分けて考えたこともなかったから、そのふたつに「あいだ」があるということ自体がとても新鮮だった。それに、こちとら古代を研究せねばならぬ立場にいる身でもあるからして、迷わず手にとり購入した。

読んでみて驚いたのは、「考古学」と「古代史」の「あいだ」には、少なからぬ溝が広がっているということだった。
「考古学」は、言うなれば理系の学問であり、モノの年代を自然科学的な方法で特定し、その特長や広がりから歴史を組み立てていく。一方の「古代史」は文系の学問で、文献をいかに読むかが言うなればすべてだ。
ふたつを分けて考えたことがなかったのは、当然ふたつの成果にもとづいて「古代」は語られているとばかり思っていたからに他ならない。
「甘いねぇ、考古学と古代史では方法論が違うんだよ」と言われれば、シロウトには反論の余地もないのだが、日本の起源に迫ろうというロマン溢れる営みが、分断されてしまっている事実には、何とも悲しい思いを抱いたのであります。

著者の白石先生は、若くして「古代」に魅せられた。大阪に生まれ、中学から高校時代に大和にある古墳をすべて見尽くしたというから、その「古代」への情熱たるやすさまじい。著者自身、「考古学」と「古代史」のふたつの道のはざまで揺れ迷った末に、「考古学」の道を選び、その立場から「古代」に挑み続けてきた。
「考古学」の世界にも「古代史」との距離感の取り方はさまざまな人がいるなかで、著者の立場は、ふたつの方法論をはっきりと分けた上で、お互いの成果は積極的に取り入れていくべき、というものだ。

うん、一「古代」ファンからすると、なんともうれしいスタンスです。

だが、その著者が繰り広げる主張はときにラディカルだ。考古学の見地から、かの有名な『魏志』倭人伝の史料としての信憑性に疑義を唱えたり、『日本書紀』や『古事記』の記述に意図的な修正が加えられている可能性を指摘したり・・・。

この本のなかで一番スリリングだったのは、考古学的な物証を積み上げて、邪馬台国は大和にあったことを結論づける第一章だ。そこにはあたかも、証言から状況証拠を組み立てて被告を追い詰めようとした検事に対し、弁護士が動かぬ物的証拠を整然と揃え、見事に無罪を勝ち取ったような、痛快なまでの説得力があった。

そりゃぁまぁ、『魏志』倭人伝の証言をそのまま採用したら、邪馬台国は九州のはるか南の海の上にあったことになるわけで、戦う前からいささか分が悪かったということかもしれないが・・・。

とはいえ、ここで言いたいのは、「邪馬台国は大和にある」ということではない。

やっぱり、「あいだ」が大事なのね、ということだ。

福岡先生が言っていた、かどうかは記憶が定かではないけれど、生物というのは異なる遺伝子を掛けあわせて、種の保存を図る。遺伝子の純潔を保とうとしようとすると、どこかでコピー機能が劣化していくものらしい。近親交配で劣性遺伝子が生まれるという話を、なぜか生物の授業ではなく、下ネタが大好きだった世界史の先生の授業で聞いた記憶がある。曰く、「古代のある王朝では一族の純血を保とうとして、親族どうしで近親相姦を繰り返して衰えていった(ニヤニヤ)」、という具合に・・・。

自らの保存を図るために、異なるものを受け入れるというのは、何とも神秘的な逆説だ。「偉人は異人なり」と言ったのが誰だったかは覚えていないけれど、純粋を保とうとすれば種は滅び、異なるものを受け入れてこそ種を残していくことができる。それが、生物が抗うことのできない真実であるとすれば、一介の生物たる人間が搾り出した学問においても同じことが言えるのではなかろうか。

ここでも「あいだ」がものを言う。
勢い良く計画線を飛び越えて、異なるものとどんどん掛け合わせて、そうしたら、世界はもっと面白くなるような気がする。

あれ、話が古代じゃなくなってる?
まぁ、その辺の無計画さが「へなちょこ」たる所以ということで・・・。

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山口ミルコ、高瀬毅、萱原正嗣というフリーライター三人衆+ミシマ社京都・城陽オフィス窪田

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