へなちょこ古代史研究会

第12回 『古事記』編纂1300年の巻――その壱 かやはらレポート④

2012.04.11更新

『古事記』が編纂されたのは、「和銅5年(712)1月28日」とされている。
『古事記』の序文、通称「記序」に、この日付がある。
「とされている」と、断定を避けたのは、この日付に対して疑いの目も向けられているからだ。「序文は後世のでっちあげ」とか「本文もいつつくられたか怪しい」とか、疑いにもいろいろなレベルがあるようだけれど、疑わしきをはっきりと裏付ける決定的な証拠もなければ、かといって、疑いをきれいさっぱり拭い去るに足る十分な証拠もない。そんな状況で、論争にはなかなか決着がつかないらしい。

まぁ、それはとにかく、断定はできないまでも、『古事記』の大部分が、8世紀の初めごろに書かれたであろうということは、多くの人が認めているところのようだ。
って、多いから正しいっていうことには必ずしもならないんだろうけれども・・・。

という煮え切らない感じではあるものの、「記序」の日付が正しいとして、今年、平成24年(2012)は、『古事記』編纂1300年。
節目の年ということで、『古事記』関連の本がいろいろ出版されている。
そこで、何回かに分けて『古事記』にまつわる本をいくつか紹介していきたい。

ちなみに、「和銅5年1月28日」の日付は、当時の暦(太陽太陰暦)によるもので、いま日本で使っている太陽暦(グレゴリオ暦)に置き換えると、712年3月13日にあたる。
つまり、この記事が公開されている2012年4月11日は、『古事記』編纂から1300年と29日ということになる。

第11回へなちょこ古代史研究会 『古事記』編纂1300年でござるの巻 その壱

『『古事記』と壬申の乱』(関裕二、PHP新書)

第一弾で紹介するのは、『『古事記』と壬申の乱』(関裕二、PHP新書)。

いやはや、なんとも、すごい・・・。
通説なんてお構いなしに、バッサバッサと斬っていっては、大胆な自説を次から次へと展開していく。
著者の言うところが、歴史の真実にどれだけ迫っているのかはわからない。
でも、通説の弱点、盲点を一息にズバッと突く鋭さには迷いや遠慮のかけらも見えず、その後で堂々と著者の説を並べられると、それがなんとも説得力を持って見えてくる。
大胆すぎる推理に、頭がくらくらしそうになるほどだ。

本書は、同時期に『古事記』と『日本書紀』という2冊の歴史書が編纂されている謎を問うことから始まる。
このふたつの歴史書は、いろんな人が性格やら形式の違いを指摘しているわけだけれども、著者の指摘は、ここでも通説とちょっと違う。

「『古事記』は朝鮮半島の新羅に好意的で、『日本書紀』は百済を「贔屓」している。つまり、『古事記』と『日本書紀』は、外交方針の異なる二つの視点から記されているので。これは、不審きわまりない」

単に外交方針が違うというだけではない。
著者の疑いの背景には、「百済・倭国連合軍」が「唐・新羅連合軍」に敗れた「白村江の闘い」(663)がある。
この戦いで百済は滅亡し、百済から多くの遺民が日本に流れ込んだ。そして、ときの朝廷は、彼らを重用し、新羅を敵視していくようになる。
「その中で、なぜ『古事記』の編者は「新羅に好意的」な態度を示すことができたのだろう」というのが著者の疑問だ。

著者は、古事記に潜む謎を他にもいくつか挙げ、これらの謎を解くヒントが、天武天皇(在位673~686)と壬申の乱(672)にあると考える。
そして、著者は言う。
「ただし、困ったことに、壬申の乱そのものが、多くの謎に包まれている。壬申の乱の真相も天武天皇の正体も、何も分かっていないのが実情である」と。
そこから、「壬申の乱」(672)の遠因を探ると「白村江の戦い」(663)に行き着いて、「白村江の戦い」の理由を追い求めると「乙巳(いっし)の変」(645)に辿り着き、その原因をさらに探ると、蘇我氏と聖徳太子の<正体>に結び付く――。

というように、著者は、壮大な古代史ミステリーの謎を芋づる式に解いていく、というか推理していく。そう、本書はミステリー小説のような本なのだ。
歴史の本を読むと眠くなる、という人でも楽しめるんじゃないかと思える一冊。

ちなみに、「乙巳の変」(645)とは、「大化の改新」という呼び名の方が馴染みのある人が多いかも。中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を暗殺したこの事件は、いまではこういう名称で教わるのだそうな。
そこにどういう事情があったかは知らないけれども、時代が変われば歴史も変わるということか・・・。

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山口ミルコ、高瀬毅、萱原正嗣というフリーライター三人衆+ミシマ社京都・城陽オフィス窪田

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