へなちょこ古代史研究会

第23回 飛鳥からの道――高瀬レポート⑦

2012.09.12更新

飛鳥。
その言葉を聞いて、古代への懐かしさのような興趣を感じるのは私だけだろうか。一方でどこか日本のものとは違うような、かすかな違和感が残るのも不思議な感覚である。いずれにしても、そこが、ある時期までヤマトの政治の中心であったことに異論はないだろう。 
 
「蘇我は天皇ではなかったのか」。その問いは、いまとなってはわからない。おそらく、それは永遠に歴史の闇のなかに眠り続けるのだろう。寝た子を起こしたくとも、もはや起き上がっては来られない時間の堆積と仕掛けがしてあるからだ。(仕掛けについては後日語ろう)。
それでも、日本という国があり続ける限り、「蘇我を甦らせよ」という声が永遠に地の底から聞こえてくるように思える。それはあまりに、飛鳥に残された記憶の断片が多いからだ。

第23回 飛鳥からの道 ――高瀬レポート⑦

『天孫降臨の夢――藤原不比等のプロジェクト』(大山誠一、NHKブックス)

蘇我王朝が実在したという人がいる。大山誠一・中部大学人文学部教授だ。氏は、『天孫降臨の夢――藤原不比等のプロジェクト』(NHKブックス)のなかで、飛鳥の地に何が存在していたのかを具体的に検証し、こう言うのだ。「飛鳥の支配者として君臨していたのは蘇我氏としか言いようがない」

その根拠のひとつが「見瀬丸山古墳」である。飛鳥の西側にある大和最大の前方後円墳。全長310メートル。そこに誰が埋葬されているのかは諸説あるらしいが、蘇我稲目という説が有力だ。馬子の父親である。飛鳥の南側、檜隈(ひのくま)は邸宅のあった嶋宮で、馬子の墓と言われる石舞台古墳がある。馬子の子、蝦夷と孫の入鹿は、飛鳥の中心部を見下ろす西側の丘陵、甘樫丘(あまかしのおか)に館を建造していた。

この丘に登ったことのある人ならわかるだろうが、そこから見た飛鳥の中心部は、思いのほか小さいことに意外の感をもつのではないだろうか。
三方を山に囲まれた狭いエリアが、生々しい政治の舞台であり、朝鮮半島や中国を中心にした渡来人がしばしばやって来た。そんなことを想像すると、不思議な感じがした。

時は流れ、人は去り、いまは過去を偲ぶだけの土地となった歴史の舞台。しかし、そこに展開された無数の出来事が、「いま」へとまちがいなく繋がっている。しかもその道は、飛鳥から21世紀の日本へと辿ることのできるたった1本の道なのだ。甘樫丘にたたずみ、飛鳥を見降ろしながら、そこから、自分が立っている現在へと至る1本の歴史の道を思い描いた。

一方で、もしも、あの時こうであったなら、という「仮説の道」もいくつもあったはずだ。しかしそれは、いずれも飛鳥の地で途絶えていた。何者かの手によって断ち切られ、運命の悪戯や偶然によって、潰え去った「可能性」である。そのような、ひょっとしたらあったかもしれない歴史を想像してみるのも悪くはない。
「蘇我は天皇であった」という想像が私を惹きつけてやまないのも、幻の歴史であるパラレルワールドを見てみたいという切なる気持ちがあるからだ。

大山氏の話にもどろう。
道の話がある。
飛鳥から北へ一直線。藤原京を貫き、平城京へと至る一本の幹線ルートである。
その基点となったのは、飛鳥の地に蘇我の繁栄をもたらした蘇我一族興隆の祖ともいうべき稲目の墓、「見瀬丸山古墳」の前方部正面中央だったのだ。

次回は、飛鳥からの道を辿ることにしよう。

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山口ミルコ、高瀬毅、萱原正嗣というフリーライター三人衆+ミシマ社京都・城陽オフィス窪田+三島邦弘

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