凍った脳みそ

第6回 ゴキブリジェット・アマ

2016.09.23更新

 カビ問題が解決した後のスタジオは、平穏な空気で満たされていた。

 心置きなく深呼吸ができるということは素晴らしい。いろいろな国にツアーで行ったけれども、日本はおおむねそれらの国に比べても清潔感があり、「水と空気はタダ」と言われている。ところが、部屋の中にカビの胞子が舞っているかもしれない、今週はPM2.5がすごいらしい、建物の土壁がめくれてアスベストがむき出しだった、完全にあいつ屁をこいたよね、などという心配ごとがある場合には、深く息を吸い込むことが躊躇われるだろう。

 普段はそういった懸念材料とは無縁で、水も空気もガバガバ吸ったり飲んだり吐いたりして暮らしていても、ふとした瞬間に問題の当事者となって、なんだか息をするのが辛いだなんてことになってしまう。カビ問題の真っ只中にあった俺は、実際にスタジオ内で伸び伸びと呼吸をすることができなかった。

 ところが今はどうだろう。南アルプスのなんらかの山の頂の空気のようには澄んでいないかもしれないけれど、安心という概念がプラシーボのように精神に効いて、空気中に浮遊しているカビの胞子への警戒心は雲散霧消、何も考えずに息をしている。というか、そもそも息というは何も考えずにするものであって、息をしていることを意識するとなんだかぎこちなく、妙に息苦しくなってしまうのだという当たり前の事実を捕まえて、独りドヤ顏をキメられるようにまでなった。スー、ハー。美味しいなぁ、空気。

 ことさら意識したことはなかったけれど、階段やキッチンのあたりの空気もなんだか美味いじゃないか。とはいえ、トイレのあたりとなると思いっきり吸い込むことはできないけれども、概ねスタジオ内の空気は清浄だ。幸せだなぁ。機会があったら、皆も存分に吸うてください。お、階段下の黒くて小柄な君も遠慮なくどうぞ。なんだ、君は虫か。なんという虫かね。つうか、死にかけじゃないか、君は。虫の息とはこのことか。つうか、ゴ、ゴ、ゴ......。ショックなので以下、割愛。うむ。ちょっとホームセンターに行ってきます。

 というわけで、一難去って、また一難。俺はホームセンターにえっちらほっちら自転車で向かった。そして害虫駆除コーナーでゴキブリ用殺戮兵器をあれこれ物色した。

 目に飛び込んできたのはアース製薬が販売している『ゴキジェット プロ』だった。昆虫を殺戮するための殺虫スプレーであるにも関わらず、緑のボトルカラーというところに少しの狂気を感じる。緑というのは自然を連想させる色だ。一方で、例えば「床一面に広がった緑色のゼリー状の液体」と書くと毒々しさがある。ゴキブリとはいえ人間よりも自然界に近いと言える昆虫への贖罪や鎮魂だけでなく、相反する毒々しさ、戦闘服、そういった連想を含めて緑のボトルカラーが選ばれたのだろう。ゴギブリへの愛と憎しみ。アンビバレントな感情がこじれ上がって、最終的に殺意に着地したようなパッケージに見えてきて、背筋が妙に冷たくなった。

 よし、ここはひとつ『ゴキジェット プロ』を購入しよう。

 俺はむんずと緑のボトルの殺虫剤を掴んで、買い物カートに放り込んだ。が、放り込んだ側から、不安になってしまった。

 名前からして、この殺虫剤が強力であることは想像がつく。「ゴ」と「ジ」の濁音に力強さが宿っている。命中すれば、たちまちにゴギブリを絶命せしむることが可能だろう。ところが、どうにもボトルに書かれた「プロ」の文字が気になる。もしかしたら、プロユースの殺虫剤かもしれない。そうなってくると、俺の殺虫技術と知識では扱うことが難しいだろう。ガスマスクなどの装備品も必要になってくるはずだ。

 いやはや、危ない間違いを犯すところだった。『ゴギジェット アマ』にしよう。そう思って店内をくまなく探した。けれども、アマチュア用の『ゴキシェット』はどこにも見当たらなかった。仕方がないので、iPhoneでアース製薬のウェブサイトを閲覧することにした。
 トップページを訪れることもなく、検索結果のページに「家庭用殺虫剤」という項目へのリンクが表示されている。なんという便利な時代だ。あとは、このサイトで該当する商品を見つけて、店員に商品棚の場所を尋ねればいいだけだ。

 リンク先のページを開くと、今度は用途を選択するメニューが表示された。ハエ・蚊用、コバエ用、虫よけ用ときて、四番目にゴキブリ用の文字があった。俺は迷うことなくゴキブリ用をクリックした。すると驚いたことに、真っ先に『ゴキジェット プロ』が表示されるではないか。家庭用殺虫剤のページなのに、プロユースの商品が表記されている。

 アース製薬、やっちゃったのかな。リンクのミスかな。担当者はこってりと絞られるな。そういう気持ちが湧き上がるかと思いきや、瞬時に誤っていたのは自分だといこうことに気がついた。『ゴキジェット プロ』の「プロ」はプロフェッショナルしか使ってはいけないという意味ではなく、プロフェッショナルが使うような殺虫剤をアース製薬が家庭用に改良しましたので存分に各家庭でお使いください、という意味だったのだ。

 なるほど。それは心強い。

  俺はもう一度棚から『ゴキジェット プロ』を取り、買い物カートに入れた。ついでに、『コンバット』という戦闘的な名前の殺虫薬も購入することにした。「ゴキブリには巣がある」という言葉をテレビのCMで聞いたことがあるからだ。問題は根本から、巣ごと解決しなければ、その場しのぎになってしまう。

 俺は意気揚々とスタジオに戻って、階段下で半死状態のクロゴキブリ目掛けて、『ゴキジェット プロ』を噴射した。強力な噴射力によってゴキブリは数十センチ先の壁まで吹き飛び、そのまま仰向けになって絶命した。なんだか虚しいような、悲しいような、なんとも言えない気持ちになった。

 そして、心の底から、何なんだよオマエ、というような気持ちを熟成させたような、嫌悪の塊のようなフィーリングが溢れ出した。大体が、虫というのはフォルムが気持ち悪い。骨格が外側にむき出しになっている構造も恐ろしいし、呼吸色素が脊椎動物と違うので血が透明、または青いという事実も、そういった負の心象に拍車をかけている。

 これが犬などの哺乳類、あるいは鳩などの鳥類だった場合、俺はホームセンターに殺犬剤や殺鳩剤を買いに行って噴射する、というような行動には出なかっただろう。どこか、構造からして自分とは繋がっていないと感じる昆虫ならば、このように嫌悪感だけを頼りに殺傷することができる。罪悪感もまったくない。むしろ、闖入してきた貴様らが悪い、とすら思っている。
 身勝手なことだけれど、昆虫が人間の形をしていなくてよかった。
 そう思った側から、昆虫型のエイリアンと人間の対立を描いた映画「第9地区」を思い出した。人型の昆虫が階段下で蹲っていた場合、俺はどうしただろうか。恐怖のあまり失禁したかもしれない。
 そんなことを考えながら、俺はビニール袋に手を突っ込み、何重にも重ねたティッシュと一緒にゴキブリの亡骸を掴んで、そこからビニール袋を裏返して、口を固く結んでゴミ箱に捨てた。

 しかし、餌になるようなものが皆無である俺のスタジオに、どうしてゴキブリが現れたのだろう。事実、階段の下ですでに彼は虫の息だったわけで、それは率直にこのスタジオに食物がないという事実を表していると思う。

 思い当たるのは、上階が弁当屋であるということだった。特段、衛生的な問題を抱えていなくても、飲食店に茶色や黒色の昆虫はつきものなので、今後も時折彼らの侵入を許すことになるかもしれない。それだけは避けたいなと思いながら、俺は『コンバット』をドアから階段まで続く廊下の四隅と、階段下とキッチンのコーナーに設置した。

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後藤正文(ごとう・まさふみ)

1976年静岡県生まれ。日本のロックバンド・ASIAN KUNG-FU GENERATION のボーカル&ギターを担当し、ほとんどの楽曲の作詞・作曲を手がける。ソロでは「Gotch」名義で活動。また、新しい時代とこれからの社会を考える新聞『THE FUTURE TIMES』の編集長を務める。レーベル「only in dreams」主宰。

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