凍った脳みそ

第8回 徳ポイントと若者

2016.11.14更新

 スタジオの移設にまつわる様々な問題も一応の解決を得て、日々の音楽作業は順調に進んでいた。

 地下のプライベート空間は、大きな音でレコードを聴いたり、作りたてのメロディを大声で歌い試したり、親の仇でも討つかのように金属弦を掻きむしったり、打楽器を叩き狂ったり、ということを誰に気を使うことなく存分に行える、夢のような場所に仕上がった。

 けれども、俺はスタジオの移設、というかコールド・ブレイン・スタジオの新設にあたって、この夢空間とでも呼ぶべきスペースを独り占めする気がなかった。なぜならば、このような夢空間を独り占めすると大小様々な祟りや罰(ばち)のような災いに見舞われることは、「まんが日本むかし話」などを観れば明らかで、空間そのものだけでなく金銭や機会などを含めて仲間たちとシェアしたり、若いミュージシャンに無償で貸し与えたりしないと、大きなつづらを選んだ意地悪爺さん的な罰にまみれて、俺の人生が崩壊してしまうような気がしたからだ。

 とはいえ、罰が当たるから、祟られるから、という己の損得のみに依拠した自分本位な心持ちで他人にスタジオを貸していると、これまた神罰や仏罰といった手に負えない大きな災いを呼び込むことになるだろう。徳を積むための寄付や寄進も、己の徳を意識して行えば、それはポイントカードにポイントを貯めて安く買い物をしよう、というような気持ちと何も変わらないわけで、徳などが得られるわけがない。ましてや、徳はポイントのように貯まるものではないし、災いについてもポイント制によるペナルティではない。
 では、どうして行けばいいのか。

 それは、とても難しい。俺のような俗人が聖人かマザー・テレサかのように振舞って、持っているものをすべて投げ出して他人の利益になりたい、みたいな発想を持つこと自体に無理があるし、無理があるからこそ驕り高ぶりのような匂いも発生する。もしも俺が神だったら、そのように聖人ぶっているヤツから真っ先に神罰の対象とするはずだ。俗人である俺の場合は、何らかの利益を自分でも得ることを目的にしなければ、精神と生活を保ちながら健やかに暮らして行くことは不可能なのだ。

 ところが、利益を金銭で設定すると、最初に書いたように、「まんが日本むかし話」的な祟りの対象になってしまう。何より、友人知人に金銭を請求するのは気が引ける。友情にヒビが入るかもしれない。では、他人に貸そうか。と言っても、俺にはスタジオ経営などを行うノウハウも商才もなく、そのようなことを行えばかえって借金が増えて、せっかく作ったスタジオを閉鎖しなければならなくなるだろう。あるいは他人に貸さないとやっていけないような状況に陥って、肝心なときに自分で使えない、というようなことになってしまうかもしれない。

 ということで、俺は凍りついた脳みそをどうにか捻って、金銭以外の、経験値のようなものを収益とみなして、このスタジオを使って行くことに決めたのだった。もちろん自分でも使うが、仲間にも無償でバンバン貸す。そして、その場に参加することで、機材の使い方や音楽制作における経験値を得る。金銭的には儲からないが、得るものがある。有り余る。なんとも俗人らしい選択でいいじゃないか。うむ。

 そんな運営理念のもとで作業をしているうちに、思いがけず「この間、二十歳になりました」というような若手ミュージシャンと知り合った。動画サイトにアップされていた楽曲は素晴らしく、生意気そうだけれども、同時にとても面白そうな人たちだったので、近所にある「便所が死ぬほど臭い中華料理屋」に呼びつけて、美味いか不味いかの判別の難しい炒飯や野菜炒めなどを食べさせながら詳しく話を聞いてみることにした。

 彼らは、自主制作のCDを作って自分たちの手だけで売りたい、独立独歩で音楽的な革命を起こしたいという野望を抱いていた。全国チェーンのCDショップが気に入らないというよりは既存の音楽業界全体が持っている閉塞感や権威的な感じが気に食わず、誰の手も借りずに自分らの手で切り開きたい、世の中をひっくり返したい、ということを、語尾に「ッス」をつけながら熱く語ってくれた。わかるような、わからないような、何とも言えないところもあったけれど、とにかくお金はないけれど意欲だけは配り歩くくらいある、というところに感心して、俺はこの人たちの録音を手伝うことにしたのだった。

 二十歳くらいのころは何かに対して怒っていて当然だし、大言壮語を投げ歩くくらいのほうがミュージシャンとしては将来性があるように思う。きちんとした将来設計をしつつ、誰にもムカつかず、余暇を音楽に当てて堅実に進んで行きます、というような若者だったら、俺のところにはやってこない気もするし、「生産性のない自作のゴミ」かもしれない創作物を拵えたりはしないだろう。もっと計画的で誠実な何かを作る仕事を選ぶと思う。何より、前者のほうがロックミュージシャンとしてチャーミングなような気もする。そう思ったことも、彼らの仕事を引き受けた要因ではあった。また、さまよえる若人を助けることで、徳ポイントが貯まるような気もした。

 実際にスタジオで作業をしてみると、彼らは思っていたより三倍ほど生意気だった。俺が積み上げてきたギターサウンドに対する知識と経験にはあまり耳を貸さず、自分たちの感覚が頼りなのだという様子だった。

「もっとモコモコした虎、みたいな音にしたい」というような不思議な比喩はともかく、「違うっスねー」「そうじゃないッス」という遠慮のない指摘こそ創作には必要不可欠だ。こちらの言いなりでは先が思いやられる。けれども、歳が半分くらいのヤツらに否定的なこと言われると、誰でも内心ではイラっとする。俺があと十歳若かったら、蹴りのひとつもくれてやったかもしれない。けれども、ここでキレたりすると、せっかく貯まりつつある徳ポイントが落ちて祟られるので、俺は努めて朗らかに録音を進めた。

 生意気なところに目をつぶれば、若人たちとの仕事はとても新鮮だった。ジェネレーションギャップというか、カルチャーショックのようなものも受けた。

 例えば、彼らがほとんどの楽器とボーカルの録音/編集をiPadで行っているということには、とても驚いた。

 俺の若い頃は、どうやって楽器の弾ける仲間を集めるかということが、最初にぶち当たる壁だった。次いで、楽器やエフェクターといった機材を買い集めることが、作る音楽のクオリティにも直結していた。録音機材の前に、演奏するための機材にお金がかかった。ところが、自分が若い頃に悩んだ問題のほとんどが、iPadとアプリケーションによって解決されていた。

 自分の作品を世の中に問うためのインフラも、俺が二十歳だったころとは隔世の感がある。たった3MBの音源ファイルをアップロードするのに何時間もかかった時代のことなど、そのうち思い返されもしなくなるだろう。「デジタル・ネイティブ」だなんていう言葉もあるけれど、当たり前のように、若い人たちは身の周りにあるものを手にとって、何かをはじめる。そこにインターネットとアプリケーションがあるのだから、それを使って、自分たちの手で発信する。とてもシンプルなことだ。けれども、そのシンプルな事実が、とても羨ましいと俺は思った。

 音楽を作る上で「これこそが正しいのだ」という方法や作法は、多分、存在しない。けれども、同じ場所に長くいると、ある種の慣習のようなものにアイデアを巻き取られてしまう。そして、その慣習の中には「なるほど」と思えるような正しさも確かにあって、それを無視することはできない。例えば、美味い白菜の生産に必要な技術は、やはり白菜を作るときには必要だ。ただ、注意しなければいけないのは、「俺たちが作っているのは野菜である」というような大きな視点を、白菜作りに熱中している間に忘れてしまいがちだということだ。

 iPadとアプリケーションも、俺が鍬でえっちらほっちら耕している側を、トラクターに乗った若い農家がブイブイとエンジン音を立てて過ぎてゆく、みたいなことかもしれない。あるいは、単なる環境破壊かもしれない。それは、時間が経ってみないとわからない。
 そんなことを考えながら、俺は徳ポイント以外の何かを得たのだった。

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後藤正文(ごとう・まさふみ)

1976年静岡県生まれ。日本のロックバンド・ASIAN KUNG-FU GENERATION のボーカル&ギターを担当し、ほとんどの楽曲の作詞・作曲を手がける。ソロでは「Gotch」名義で活動。また、新しい時代とこれからの社会を考える新聞『THE FUTURE TIMES』の編集長を務める。レーベル「only in dreams」主宰。

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