タイトル、まだ決まってません。

「平日開店ミシマガジン」時代の人気連載「飲み食い世界一の大阪~そして神戸、なのにあなたは京都へゆくの」では、ハモをめぐる炎上事件や粉もん論争など物議をかもしたことは、記憶に新しい方も多いでしょう。
そしてついに「みんなのミシマガジン」でも、江弘毅氏の新連載がはじまりました!
その名も・・・え、「タイトル、まだ決まってません。」?

そう、タイトルが決まってないのに、始まってしまった本連載。
「食べもののことは書かない」をテーマに、「飲み食い世界一の大阪」とはひと味もふた味もちがう江弘毅ワールドをお届けします!

第3回 「通」という職業はないしそれでは食べていけない。

2013.08.14更新

 前回のコラムはあまりにも反響が大きかった。
 結構なことだと思う。
 とくに編集者回りで「グルメライターK氏」についてあれこれの憶測が飛んだ。何を隠そう「K氏」とはこのわたくし「KOH氏」のことだ。

 これまでそれこそ山のように店や食べ物のことを書いてきた。そのK氏が食べ物について書くことが、ときに恥ずかしいと思うのは、「仕事やから経費で」とか、「タダで食わしてもうて書くのはバーターやんけ、結局のところ」という意識かと思う。
 もうひとつ感じることは、ワンランク上になって「グルメ評論家」みたいになると、やりたいことが面白くなくなる気がすることだ。
 しかめっ面をしてメシを食うているのを他人に見られるのは恥ずかしい。

 K氏があくまでもやりたいことというのは、街で飲んだり食べたりして「ほんまにエエ店やな」ということを感じることである。
 エエ店の基本は、バーや居酒屋といった酒場ではやはり酒がうまい、仏料理店や鮨屋といったメシ屋ではあくまでもメシがうまい、ディスコやジャズ喫茶やレゲエバーといった音楽を聞かせる店では、ナイスで踊りたくなる音源がいい音響装置でよく鳴っていることだ。

 あたり前のことといえばあまりにもあたり前だが、「ああ、エエ店やな」となる店はそんな基本は当然のように押さえられていて、さらにうまいやいい音といった一般的な物差しに加え、その店にしかない「あるもの」が揮発しているからこそ、思わず「ああ、エエ店や」と声が出るのである。
 その「あるもの」というのは微妙で、その店へ誰かを連れて行って喜んでもらったり、ほかの客と話で盛り上がることだったりする、人づきあいの領域だったりもする。

 グルメやワインのライターにしろ、音楽評論家にしろ、食べたり飲んだり音を聴いたりして書くのが仕事であり、舌の良さ耳の良さがそれを支えることになる。それが「評価してやろう」というスタンスに繋がることも多く、そこにやりたいことを仕事ししてしまった悲劇がある。

 どこで何を食べてもオレは満足しないぞ、オレはグルメ評論家だから、というスタンスを一旦とってしまうと、自分にとってのうまいものはどんどん少なくなってくる。
 それに加えて「ああ、エエ店や」になる「あるもの」をなかなか検知できなくなるようだ。

 『食べログ』などの書き込みを読んで、「痛いなあ」となるのがこの手のスタンスで、シロウトだけにこれは余計にツラい。
 決定的に「あかんやろ」と思うのは、ブロガーたちがグルメ本などの評判を見て、店に初めて行って、「料理がまずい」「サービスがなっていない」「コストパフォーマンスを考えると2度と行かない」といった「評価」をしていることだ。
 わたしがよく会社帰りに行くイタリア料理の店は、音楽好きの店主が店に立ち、友人のシェフが調理する小さな店だ。「イタリアンバール」とかで書いてしまうと、そこで小さな音でかかるサルサやフラメンコといったラテン系ダンス音楽の絶妙の選曲が味気なくなる。
 とあるブロガーはこう書いていて、わたしやその料理店のオーナーの目蓋を閉じさせるのである。

 「こちらで評判が良さそうだったので、行ってみました。」

 「カジュアルバル。」

 「入店時はノーゲストでしたが、二人で一番小さい席に通されました。せ、せまい。これは一人用のフードでもう十分になってしまいそう。」

 「そして、意外にあまり興味をそそるメニューがなかったので、(2軒目だとすると十分な品揃えなのかも)とりあえず様子見で二品のみ注文。」

 「バーニャカウダは最近多くのイタリアンで出されるようになりましたが、あまり美味しくないお店が殆ど。」

 「野菜はいいのですが、肝心のソースにばらつきが。」

 「こちらも、全然バーニャカウダソースではない。常温のアンチョビオイルソースなので、何というか、印象は単なる野菜スティック。」

 「確かにソースを下から熱すると沸騰して煮詰まりがちなので何かと手間がかかりますが、これでは、野菜をもりもり食べにくい。」

 「などしているうちに、その小さいテーブルにもう一品はこばれーの、取り皿も増えーので なんだか煩雑になってきた割に しんどくなってきたのでそそくさとお店を後にしました。」

 「バル的と言えるのは近所のabukuみたいなのかな。がちゃがちゃしているが活気があってなんとなく楽しい・・みたいな。」

 文章が下手だとかそういう話ではなく、「オレに言わせりゃこの店のこの料理は...」という態度で店に関わっている限り、きっとうまいもんにはありつけないし、店で消費者というスタンスを変えない限り「あるもの」を感じることはできない。

 どこで何を食べてもうまいと思ってる人の方が、実はうまい店いい店を知ってるというのはあたりまえだ。
 その人はいい店しか行ってないからで、そうかそういう人のことを「通」というのか、などとようやく気づくわけだが、「通」という職業はないしそれでは食べていけない。
 いや正確には、現にその時、そこで食べているという実生活があるが、その食べていることをそれ以外の仕事で成り立たせているわけである。
 食べものについて書くことを仕事にする人のうち、「まずい」や「よくない」を書く人に、なるほど「通」が少ないと思える事情はこのあたりにある。

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江弘毅(こう・ひろき)

1958年、大阪・岸和田生まれの岸和田育ち。

『ミーツ・リージョナル』(京阪神エルマガジン社)の創刊に携わり12年間編集長を務める。現在、編集集団「140B」取締役編集責任者、神戸女学院大学非常勤講師。

著書に『「街的」ということ』(講談社現代新書)、『岸和田だんじり祭り だんじり若頭日記』(晶文社)、『ミーツへの道』(本の雑誌社)、『街場の大阪論』(新潮文庫)、『「うまいもん屋」からの大阪論』(NHK出版新書)、『飲み食い世界一の大阪〜そして神戸。なのにあなたは京都へゆくの』(ミシマ社)など。

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