タイトル、まだ決まってません。

第6回 この頃の若いもん

2013.11.21更新

 K氏はほかの同世代ーー50代の人よりも、「若い者」にかかわっている。
 「若い者」というのは会社のスタッフや取引先、仕事関係のかれらや行きつけの酒場やお好み焼き屋などで顔見知りの「若い者」・・・などなど、である。40代で大学生の子どもがいる場合でも、K氏にとっては「若いもん」となる人も多い。
 またK氏の場合、最強なのはK氏が毎年関わっている岸和田だんじり祭礼の「若いもん」であり、町内だけでもその数は二〇〇人は下らない。

 その「若い者」のニュアンスにあるのは、「その書類、若い者に取りに行かせます」「今どきの若いもんはカシスソーダとか飲みやがる」「うちの若い衆もなかなかがんばってる」という感じで、そこには部下、後輩、弟子・・・といった意味が含意される。「若い者」という言い方には、その若い者を知っている、また自分が知られている、ということが前提となってくるのだ。
 したがって「この頃の若い者は」という物言いをとくに当の若い者に言うのは、一般論ではダメで、必ず「顔と顔の関係性」がないと説得力を持たない。

 駅のホームにうんこ座りしている知らない大学生に対して、「そこの若いの、邪魔だからどけ」というのは該当しない。これではあかんのである。
 「はあ? おっさん、『若いの』て俺のこと?」
 となって、相手によって場合によってはあなたにとってややこしいことになる。
「ちょっとそこに座っているきみたち、おじさんが通れなくて迷惑だから、やめてくれないか」という言い方が正統的だ。
 だからこそ「今どきの若い者はなっとらん」「あの若いもんは口の利き方も知らんのか」とか言うのは、その現場にいる「若い者」に直接言うという形をとらなくて、必ず他所の場所にいる自分の家族や知り合いに言明することになるのだ。
 これではほとんど、愚痴にしか過ぎない。
 
 実際にK氏にとっては、街のあちこちで見かける近頃の若い男のわざとボッサボサにした髪型や、はたまたわざとずらしてケツで穿いているジーパン姿は、これはもう辛抱たまらんという時がある。
 けれども電車の中でいきなり「鬱陶しいんじゃ」と髪の毛を引っ張ったり、「サイズ間違ごたんか」とジーンズを下げおろすことは完全に暴力である。
 そういうことをすると、逆にドツかれてしまうので、そういう若い者を見かけたら、近寄らないことにしている。これは『絶望の国の幸福な若者たち』がテレビに出ているのを見て、即座にチャンネルを変えてしまうのと基本的によく似た行動である。
 
 考えてみれば、K氏は20代の頃、いや下手をすれば高校生の頃にはすでに、年上の大学生に対しても「この頃の若いもんは」といったことを言うていたのではないか。
 すなわち「若い者」が指し示すものは、その同時代を生きる若者のことであって、自分から見た自分以外の若者でもあった。
 彼にとっては「若い」というのは、無分別、無思慮の象徴のようなものである。中学生のいじましさみたいなのもそこにはある。しかしK氏以外の人からすると、K氏もまぎれもなくそのうちの一人だったから勝手なものだ。

 けれども今や50代を過ぎたK氏の感覚からすれば、それは街や電車の中で見かける先述の若者たちよりも、40〜50代に「この頃のおやじは」といったものを感じることが多い。つまり彼らに「チョイ悪おやじ」的なものを感じる感覚と似ているのである。
 60代にも多いな。彼らは実際には「この頃の高齢者」であるが、「この頃の若いもんはちゃらっとした服を平気で着て、胸にちゃらっと金のネックレスなんかしとる」と言いたくなるような人がたくさんいる。
 それに対しては「年寄りのこと、放っといたれや」という声が多しであるが、感覚的には「アホぼんの大学生みたいな格好すな」という、「この頃の若いもん」にそのベースとなるモデルがある。若者はいつでも割を食うものだ。

 それに比べて頭のてっぺんからから靴の先まで真っ黒けで、ベントレーとか乗ってる「全悪おやじ」に対して、とくに度胸千両系男稼業の人については、いくら年下であろうが「この頃の若いもんは」と言うことが憚られる。それは怒突かれるシバかれるで済まないからに決まっている。
 尻取り遊びではないが、後藤忠政の『憚りながら』では、後藤氏は紳助はじめ糸山英太郎など政治家を「この頃の若いもん」扱いしている。

「若い者」とはそれぞれが理想とする「大人」の反対であり、その大人は18歳以上いや20歳以上だ、というものでもないし、どんなバッヂをスーツの襟につけているかとか、お金をいくら持っているとか、そんなことではないだろう。
 
 「この頃の若いもんは」の対象となるあれやこれやには、ヤンキー的なものが多い。彼・彼女らの服装や髪型、話し方、歩き方、ケータイのデコレーション、乗るクルマの車種、行く店、食べるもの...、とそれらは嘲笑のネタともなりやすいが、K氏は基本的に御堂筋心斎橋でフェラーリを乗ってるような「アホぼんの大学生」(または「チョイ悪おやじ」)的な若者(またはおっさん)の精神性より、ヤンキー的なものやヤンキー的思考に関しては理解が深く親和性がある。

 ヤンキー的な考え方の根底には、「顔を知っている人/顔を知らない人」の二分律がある。顔を知っている人については徹底的に身贔屓で、知らない人はほとんどが敵だとも思っている。
 だからこそ、顔を知っている先輩から「この頃の若いもんは...」と言われて、「はあ、すいません」と返す姿勢がヤンキーにはある。だんじり祭礼の世界に長くいるK氏は、そういう態度は嫌いではない。というか、そうでないと祭はやっていけない。
 ヤンキーは「知り合いばかりでみんないいヤツおもろい人」という倫理観が根底にある。この倫理観はFacebookの「友達」のコメントや写真に「いいね!」を連打するのとは少し違う。

 「知り合いばかりでみんないいヤツおもろい人」というのは、なかなかに街的なものの見方、考え方なのだと思うのである。
 都会は匿名性にまもられた軽やかな自己をもって、消費情報ベースであっちこっちと遊んだり食べ歩いたりできる。けれども大阪ミナミや北新地、京都祇園では「顔が利く」ことが楽しく遊べる必要条件のうちのひとつだ。そういう環境では「食べログ」に初めて行った店のことをぼろくそに書いたり、バナメイエビの偽装に血相を変えてクレームを入れるような人はいない。
 それはフード・ライターみたいに矢鱈めったら「店を知っている」ということではない(どういうわけか、店側は「その方、名前は知ってるけどよう知りません」というのが多い)。そういった「店をたくさん知っている」人もいるにはいるが、どちらかというと「ここしか行かない」「いい店しか知らない」ところにグッと来るものがある。
 シブい。要するに大人なのである。

 ヤンキーの方が早く大人になりたがる。「ヤンキー、もう卒業しました。はい」というヤツだ。
 というか、そもそも「大人のヤンキー」あるいは「ヤンキーの大人」はいないのである。
 「早く大人になりたい」と思うことは、「知ってる大人」から「この頃の若い者は...」と言われて「すんません」と反省することにほかならない。それらは真の若さ、すなわちヤンキーの特権でもあるのだ。
 ただし、その大人というのが、真の大人であるかどうかは話は別であるけれど。

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江弘毅(こう・ひろき)

1958年、大阪・岸和田生まれの岸和田育ち。

『ミーツ・リージョナル』(京阪神エルマガジン社)の創刊に携わり12年間編集長を務める。現在、編集集団「140B」取締役編集責任者、神戸女学院大学非常勤講師。

著書に『「街的」ということ』(講談社現代新書)、『岸和田だんじり祭り だんじり若頭日記』(晶文社)、『ミーツへの道』(本の雑誌社)、『街場の大阪論』(新潮文庫)、『「うまいもん屋」からの大阪論』(NHK出版新書)、『飲み食い世界一の大阪〜そして神戸。なのにあなたは京都へゆくの』(ミシマ社)など。

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