タイトル、まだ決まってません。

第9回 服がおもろなくなった。

2014.01.29更新

 K氏は結構、服持ちだ。
 商店街の生地屋の息子に生まれ、糸偏の中でそだち、雑誌編集の仕事ではファッションページを担当してきた。
 若いころから人から「お洒落ですね」と言われるのに慣れているようなK氏であるが、このところファッションに対して、以前ほど興味がないらしい。
 紺のジャケットだけで10着以上持っている服持ちのくせに、そのジャケットも1回も着ずに、この冬はコート2つとセーター3つと下はジーパンのみですごしている。
 ローソンへタバコを買いに行ったりするときもふくめ、靴もほとんど2足しかはいていないし、客が家に来るとき以外は、ジャージ姿だ(これだけは昔も同じだ)。

 それはK氏の思い込みかもしれないが(K氏はときにそれが激しい)、ユニクロやZARAやH&Mばっかりになったことが原因だと思っている。
 「ガストとロイヤルホストとサイゼリヤ、どこが美味い、みたいなもん、何にもおもろないやんけ」とのことだ。

 そういう時代が悪い。だから服がおもろなくなったから、服に気を遣わない。
 とても短絡的だ。
 あたっているところはあるけれど、しかしあまりおつむが良い発想ではない。その証左にお洒落に気を遣わなくなったK氏は、実際見るも無惨な格好をしている。
 服のみならず髪も伸び放題で、髭もぼうぼうで、落武者のような姿だ(落武者は見たことがないが)。自分の姿を鏡で見て、外へ出て行きたくなくなるほどだ。

 「お洒落に気を遣う」ということは、なかなか複雑だ。
 ストレートなのは何といっても、「カッコいい服」を「カッコ良く着ること」だ。
 トム・フォードでもドルチェ&ガッバーナでもコムデギャルソンでもなんでもいい、ショーウインドウに並んだばかりのコレクションをばしっと着て、みんなに「おー」と言わせるのは楽しい。
 北新地のクラブやラウンジへ行って、チーママに「またまた、いいお洋服ですね」と言われるのはもっと楽しい(これもあまりおつむの良い発想ではない)。
 
 けれどもお洒落を自認している人の中には、「服には気を遣っていません」ということを目的化して「服に気を遣う」みたいな人がいる。
 すっぴん美人を目指すためのすっぴんメイク、みたいな感じだが、これはK氏によると「なりふりの構わない、なりふりの構い方」の対偶にある痛いスタンスだそうだ。
 そういうヤツらにかぎって、ロロ・ピアーナとかのむちゃくちゃに良い生地の「普通の服」を着ているし、普通のコートがこれまた誰が見ても良いとわかるカシミアのコートだったりする。
 しかしなぜカシミアのコートを着ている人に、お洒落でカッコいい人は少ないんだろう(←K氏のひがみっぽい余談)。

 カッコいい服をカッコ良く着ることはカッコいいし、普通の服をカッコ良く着ることもカッコいい。要するにダサいやつは、アルマーニを着てもエルメスを持っても、ダサいからダサい、ということなのだ。
 年末以来約2カ月の間、連日連夜のてっちりとヒレ酒と刺激のとりすぎで、おつむがしびれているK氏ではあるが、これは的を射ている。

 けれども「お洒落に気を遣いたくないからユニクロ」というのは違う。
「それはウソやろ。絶対」とK氏は断言する。
 
 服屋の前を通る際に「邪魔くさいなあ」となっているK氏ではあるが、年明け早々葬式へ行くのに白のカッターシャツが必要になった。
 白のカッターシャツは、ボタンダウンもレギュラーカラーもワイドもあるにはあるがアイロンを当てていない。これ着て行ったらナンボなんでもそら失礼やろ、とK氏は思う。
 なかなかの小心者だ。かといってユニクロには行かない。

 以前のK氏なら「そんなもん一番近いデパートへ行って、テキトーに買うたらええやんけ」と思うのだが、「デパートはめんどくさいし高いしヤンピや」となってしまうほど服に対してヤル気がなくなっているのだ。
 「まあ、何でもええやんけ。どこでも売ってるし」などと、文字どおり気を遣わなくなっているうちに時間がなくなってしまった。葬儀は明後日、待ったなしである。
 
 白いシャツでもなんでもそうだが、服を買うには銭が要る。
 だからより好んでダサい服を買うことはない。だからあり合わせで行こうとする。
 会社の近所の服屋にマオカラーの白いシャツが売っているのをK氏は知っているが、それは絶対買うことがない。
 これも多大な思い込みで短絡的であるが、いかにも偏差値が低そうな高校の、ブレザーにグレーのズボンの制服を着るのに、わざわざだぶだぶのズボンをケツで穿いている眉毛を剃ったヤンキーのがきんちょよりも、マオカラーのシャツを着ている建築家上がりのまちづくり系コンサルの類の人のほうが、なんだかダサいと思っているからだ。

 むちゃくちゃ腹が減ったとき、あとで後悔するぞとわかっていてなお、何でもエエわとコンビニで肉まんを買って、案の定そうなるのとは違って、衣食住の衣の世界では、気を遣いたくないから何でもいいというのは絶対ない。

 さておきK氏は、毎日のように会っている古い友人が、先日なかなかカッコ良く普通の白シャツ、それもまっさらと思しきレギュラーカラーを着ているのを思い出し、電話をかけて「あれええシャツやったなあ、どこのん?」と訊いた。
 家が商店街にあり両親のおじいおばあがやっている瀬戸物屋の息子の友人に明日の朝にでも、同じのでLサイズを買ってきてもらおうと思ったからだ。
「あれてどれや?」
「こないだ着てた、さらのフツーの白いカッターシャツや」
「全然知らん(ブランドだ)けど、うちの家の商店街の服屋で買うたンや」
「おー、エエやんけ。頼むわ」
「おっしゃ」

 そういうまったく服に無頓着で人に買い物を任す、この時代にふさわしいナイスなコミュニケーションを期待していたK氏だった。
 が、古い友人は即座に「ああ、あれなあ、無印やで」と言った。その言い方も「あっ、おはよう」に「何か、問題でも?」が加わったみたいな感じだったので、K氏は完全に逆上してしまった。
「なーにが、無印や。怒突くど。おまえが無印良品てか。おまえグランフロント大阪の新しい無印にでも行って買うたんか。昔からホンマに可愛げないヤツや。おまえは昔からダサいのに、オレよりずっとダサいくせに、無印良品はあかんやろ。絶対認めへんからな」
 
 電話を切りながらK氏は無残な敗北感につつまれた。
 無印良品はだれもがふとあたり前に思う「服にあまり神経を使いたくない」という弱点をあざとく突いてくるブランドものだ。
 服に余計な気を遣ってないことを演出することに気を遣う、さもしい半玄のビンボー人が、まんまとハマる「あえてブランド名を無しにしたブランド」である。
 K氏の今の状態に、なんだかかすってしまいそうな気がしたからこそ、K氏の逆上があったのだ。

 その性根は「わたしの仕事はネクタイなど締めなくていい仕事です。だからネクタイを締めるシャツじゃないシャツを着てるのですよ」などと、わざわざマオカラーのシャツを妙なデザインのジャケットの下に着る志向とも共通するが、それより服としてそれを着ることがもっとダサいと思うユニクロの一番おもろないとこは、まず「値段が安い」というカネの話しかないところで、「服に余計な神経使いたくない」という、あたり前のことの落とし所が「リーズナブルだから」に直結していることだと思う。

 あるブランドの服を着る理由としてこれ以下のものはない。ブランドものの服を着ることについての「デザインもそんなに悪くないし」というあいまいに否定するスタンスの言い訳は、マオカラーを着る趣味よりもファッションの世界をおもろなくしているのだ。
 服のことを考えるのにこういうおもろない話はない。それこそが余計な神経というものだ。
 とりあえずK氏は散髪に行って、シャツにアイロンがけしようなどと、力なく決意するのであった。

お便りはこちら

みんなのミシマガジンはサポーターの皆さんと運営しております。

江弘毅(こう・ひろき)

1958年、大阪・岸和田生まれの岸和田育ち。

『ミーツ・リージョナル』(京阪神エルマガジン社)の創刊に携わり12年間編集長を務める。現在、編集集団「140B」取締役編集責任者、神戸女学院大学非常勤講師。

著書に『「街的」ということ』(講談社現代新書)、『岸和田だんじり祭り だんじり若頭日記』(晶文社)、『ミーツへの道』(本の雑誌社)、『街場の大阪論』(新潮文庫)、『「うまいもん屋」からの大阪論』(NHK出版新書)、『飲み食い世界一の大阪〜そして神戸。なのにあなたは京都へゆくの』(ミシマ社)など。

バックナンバー