タイトル、まだ決まってません。

第10回 セブンイレブンのコーヒーと立ち呑みで思うこと。

2014.11.27更新

 K氏のオフィスの向かいにはセブンイレブンがあって、原稿書きや打合せの間の息抜きに、100円払ってカップをもらってあとは豆挽きからドリップまでしてくれるコーヒーをよく買う。
 そのまま蓋をしてただけの状態で持って帰ってデスクで飲んだり、ビルの地下にある喫煙所の前のテーブルの椅子に座って飲んで、その後煙草を吸ったりしている。

 K氏がさきほどコーヒーを買おうとセブンに行ったら、レジ横に新しいガラスの陳列棚が置かれていて、ドーナツ数種が売られていた。
 コンビニの店員さんは珍しく「今日から発売なんです。ミスドよりお安くておいしいですよ」とK氏に言う。
 コンビニは自分の買いたいものをレジに持っていってバーコードに通すだけの、万国共通・グローバルスタンダードの装置であるが、そこでは要らん会話はない。というより、客とのコミュニケーションはコストである。そう企業側が考えている節がある。

 大阪でも博多でも名古屋でもまったく同様の妙なイントネーションの「いらっしゃいませ〜、こんにちは」という挨拶は標準語でもない。それは「はい、お客さんに挨拶しましたよ」という合図にすぎなくて、「こんにちは」と言われて「はい、こんにちは」とは返せない何弁何語でもないイントネーションだ。
 
 マクドの「ポテトはいかがですか〜」と同様の「お箸は1本でいいですか」はマニュアルだし、イエスかノーかだけを訊く「コミュニケーションを省略するためのコミュニケーション」だ。

 ものすごいしょーもないことには違いないが、シフト表のAくんからHさんまで(おっとCくんは中国からの留学生だった)おなじように容易に発音できる新言語を発見したコンビニ業界は、そのエゲツなさにおいて偉大である。

 話は逸れたが、新しくドーナツをやるからよろしく、というセブンの店員さんのコミュニケーションらしい発語に、いつでもどこでも要らんこと言ったり変化球で返す大阪的コミュニケーションの手練れのK氏は、
 「ここらの喫茶店喰うて、今度はミスドを喰いにかかるんや。コンビニは命がけで殺生(せっしょ)やな」と言った。
 店員は「よろしくお願いします」と言って笑った。

 けれどもK氏はコーヒーを買う場合と同じく、ドーナツを買ってもそのセブンのカウンター席へ持っていって食べたりはしない。
 それなら酒飲みのK氏のこと、とっくの昔に缶ビールとおでんとか唐揚げを買って、そのカウンターで一杯やってただろう。

 コンビニは街の喫茶店を蹂躙し、街を全国同じの味気ないものにしてきて、今度は同じ味気なさの穴のむじなであるマクドやミスドもいってもたれ、というキョーレツな企業であるが、地元の酒屋の立ち呑み屋や串カツ、おでん屋の立ち呑みに通う人間には相手にされないだろう。

 それは立ち呑み屋が酒場であるからだ。酒場は地元意識に満ちあふれている。というか、酒場こそが地元性である。

 他所の街に行って立ち呑みをやっている酒屋を見つけると、K氏はうれしくなるが、その店に入るのはちょっとはばかられる。長い間その街の地元の人が培ってきた、その店その場所の空気を壊してしまうと思うからだ。というより、そのむんむんと揮発している地元感に入っていけない気がする。
 そこらへんがK氏のシャイでナイーブ過ぎるところであるが、自身は「それはやっぱし行儀悪いやろ」と思っているに過ぎない。

 まれに「前を通るキミ。さあ一杯ひっかけていってよ」という佇まいの店を発見する。
 「角打ち」がある北九州しかりで、そういう街はほとんど例外なくいい街だと思える。 
 もっとまれには、飲んでてゴキゲンに出来上がってる客が、あんたらええなあ〜と店を覗いてるK氏に向かって、「にいちゃん、まあ一杯飲んでイケや」みたいなことを言ってくれることがある。酒飲みは酒飲みを分かる、というヤツだ。
 逆に立ち呑みができる酒屋がそこかしこにある街で育ったK氏もそういうことが分かる。

 さきほどのK氏のセブンイレブンもそうだが、このところ大阪市内のキタや船場のオフィス街の大きなコンビニでは、椅子とテーブルがセットされている店が増えた。
 そこではカップ麺に備え付けのポットから湯を入れて食べるネクタイ姿のビジネスマンやサンドイッチにペットボトルの紅茶を飲むOLがいたりするが、酒屋の立ち呑みのようにビールやチューハイを飲んでいる人は見かけない。

 ソーセージやおかきやピーナッツなどアテも豊富だしおでんだってある。その気になれば、とりあえずのスーパードライを入口にして、イカの塩辛とワンカップ大関で十分出来上がることだって可能だ。
 ちょっと一杯にはとてもコンビニエンスだが、K氏と同様、みなさんコンビニでは飲る気がしない。

 そのカウンターでシャキシャキレタスサンド250円を食べたりマチカフェ100円のコーヒーを飲んだりしている人は、近くにオフィスがあって毎日そのコンビニへ行って、あれこれ買っている人である。
 けれどもそのコンビニに「地元意識」を感じたりはしないから、酒屋の立ち呑みのようにならないのだ。

 酒というのは本来、そういう類の場所を選ぶ、デリケートな飲み物なのだ。だから「酒場」という特別の名前がついている。

 コンビニやファストフード店、ファミレスは、全国どこに行っても同じ店、同じコーナーに同じ商品が並んでいる。そこでは「今度、オレの行きつけの店へ連れてったるよ」という感覚はないし、そういうところに地元意識なんか生まれようがない。

 また企業側はあくまでも経済至上主義、グローバルスタンダードでないと困るのであって、客も店で働いているスタッフも代替可能な匿名の存在だ。

 酒屋の立ち呑みは、店自体がその街の地元意識そのものである。
 K氏が生まれ育った岸和田に行けば、だんじり祭の時期でなくても立ち呑み屋の外にビール箱を出してそこに座って昼間っから飲んでいる人がいるが、それはその場所を疑いようのない「自分の居場所」と思っているからだ。

 この場合の地元意識というのは、地元と外部の境界線を感じながら酒を飲んでいることであり、その店で飲んでいるメンバーが偏狭な内輪意識だけで固まっていると、悪い面での村体質のようにずっと閉じたままだ。
 これはぜんぜん街的でない。

 自分たちの居場所つまり共同体性のようなものを、どう外部つなげようとするかのベクトルみたいなものが、多分「まちづくり」だとK氏は思っているのだが、そういう立ち呑み酒屋がある街はその店がそれを具現しているので、そんなことをいちいち声高に叫ぶ必要はない。

 さあ今日も帰りにちょっと寄って行こう、とK氏は思うだけなのであった。

お便りはこちら

みんなのミシマガジンはサポーターの皆さんと運営しております。

江弘毅(こう・ひろき)

1958年、大阪・岸和田生まれの岸和田育ち。

『ミーツ・リージョナル』(京阪神エルマガジン社)の創刊に携わり12年間編集長を務める。現在、編集集団「140B」取締役編集責任者、神戸女学院大学非常勤講師。

著書に『「街的」ということ』(講談社現代新書)、『岸和田だんじり祭り だんじり若頭日記』(晶文社)、『ミーツへの道』(本の雑誌社)、『街場の大阪論』(新潮文庫)、『「うまいもん屋」からの大阪論』(NHK出版新書)、『飲み食い世界一の大阪〜そして神戸。なのにあなたは京都へゆくの』(ミシマ社)など。

バックナンバー