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第13回 「まちづくり」は禁じ手

2015.08.24更新

 長い間、街についてあれこれ取材し書いたり編集してきたK氏は、「まちづくり系」のシンポジウムや会合に呼ばれることがある。

 書き物にすら「街場」とか「街的」とかのわかったようなわからんような用語を多用するようなK氏であるが、「行政やとかデベロッパーとかの都市計画系の人が使う平仮名の『まちづくり』という表現、あれ見るとぞっとする」と言う。文章だけでなくそういう人らが「まちづくり」と言うのを聞いても同じ感じだ。

 字面がとても優しい平仮名で「まちづくり」と表記されることと、「都市開発」とか「大規模商業施設」といったデベロッパー的ながちがちの、それも0が2つも3つも多い経済至上原理の「事業」の間の埋められない溝みたいなものを感じるというK氏だ。

 「こと大阪の場合、70年代のアメリカ村以降、誰かが何かを企図した『まちづくり』で、うまいこと行った事例は知らない」
 そうK氏は断言する。「何かを企図する」というのはもちろん経済のことで、要するにカネ儲け。アベノミクスの根っ子もそこにある。
 「橋下もそうやけど政治家が何か言うたりして、経済活動がようなったり、街が賑わったりするもんちゃう」とK氏はぼやく。

 確かに長引く不況とカネ持ちばかりが儲かるシステムで、街人の財布が薄くなり、街の飲食店で飲み食いしなくなった。
「みんなコンビニとか松屋とかサイゼリアやないか。あんなん店ちゃう」
 街の貧乏人の味方である街場のおばちゃんがやってるお好み焼き屋やうどんもあるめし屋は、駅前の一等地やショッピングモールやファッションビルにない。
 これは金融および土地本位制やないか、などと苦々しく思うK氏であった。

 街は書き割りの商業施設をつくって、そこにテナントを入れる、というのではなく、「何かをやりたい人が」いきなり出てきて「自分のやりたいことをやる」。それが流行軸に乗ったカフェなりジーンズショップなりの店舗だというケースが多いが、別に料理のうまいおばちゃんがやる居酒屋やリタイアした粋な親父がやる音楽がかかるコーヒ店でもいい(それのほうが断然おもろい、とK氏)。

 その店に人が集まり「居場所」となる。仲間意識もうまれるし、その仲間が「じゃ、オレも」ということで近くに店を出したりする。
 ある店が人を呼び、今度はその人が店を呼ぶ。そういうプロセスで点(店)がつながり線になるとそれがストリートだ。ストリートが縦横と交差すると面、すなわち街になる。

 70年代にアメリカ村や80年代、90年代に南船場や堀江で、さんざん遊んで飲み食いしてきたK氏は、「時間がかかるが、単純なカラクリだ」と言う。

 市長や企業の役員がテープカットをして「まち開き」(→文字変換してて情けない)をするようなものとは正反対。そんなのは商業施設のそれであって、ファッションビルやブランドものブティックのオープニング・イベントの類だ。

 だいぶ前の話だが、心斎橋にルイ・ヴィトンの直営店(世界3号店やったらしい)がオープンするときに、東京から新幹線のグリーン車を貸し切って、上顧客(セレブリテと言うてたな)と一緒に神田うの(だったと思う)が来て、オープニング・レセプションをやって、テレビやファッション誌に露出した、みたいなことと根は同じなのだ。「何がおもろいねん」とK氏。

 街は他人が「つくろうとしてできる」ものではない。店をやる人が自然発生的に集まって結果として街になるのだ。したがって「まちづくり」を職業とするプロなんていないのだ。
 
 「情報発信」というのもよく似ているな。
 先ほどのルイ・ヴィトンもそうだし、マクドナルドやサントリーが販促のために情報発信することは企業として大切だ。それにカネをかけるのがいわゆる広告で、費用対効果が期待されるならどの企業だって10億円のカネをかける。
 そのために広告代理店のマーケッターやプランナー、それを表現する広告クリエーター(佐野研二郎のような人)がいる。
 
 K氏の仕事は、街のことや店のことを書いたり編集したりする仕事だから「情報発信」してるわけだけど、K氏は「街が賑わっておもろくなるには、情報発信が大切です」などとは言わない。
 K氏が取材して雑誌や新聞やネットに書いたりして、現に「情報発信」していない限り、仕事をしていないのだから。書いたり表現したことが、まずその街の人に読まれたりしないと「情報発信」じゃないのだ。そしてその結果として「おもろい街や」と賑わえばいい。

 「まちづくりには情報発信が不可欠だ」という物言いのありようは、「まちづくり」ということが「情報発信」によって可能だ。そういうものの見方だが、そういう「まちづくり」の人が、実際食べ物屋や飲み屋をやるわけでないし、自らサイトを開いて「おもろい店や街」のことを書き込んだりするわけではないから、話にならない(記事にならない)。

 これは「まちづくりコンサルタントの○×です」と名刺を渡されて、「なんか胡散臭いな」と感じたりすることに近い。そこには「まちづくり」や発信される「情報」の実体がない。

 オープニング・レセプションに神田うのや藤原紀香や石田純一を「仕掛けて」、それにプレスを群がせるという方法は、そんなに古くはなく2000年前後、バブル崩壊以降のことだ。
 
 大阪府知事やその後市長になった橋下徹のメディアに対してのやり方もほとんど同じであるが、企業のそれは恫喝はしない。が、このところ議員がメディアに「広告を出すな」、作家が「沖縄のメディアはつぶさないかん」と言ったラインも何でもありだ。
「ヤクザ以下やなあ」K氏の憂鬱であり、「全然、街的やない。ぜんぶメディア操作やないか」不機嫌なK氏であった。

 もし「まちづくり」というものがあるとするならば、それはその街の「まちづくりのOS」のようなものが、その街に住んでいたりの実生活があったり、店をやって生計を立てていたりの実体を持っている人々によってつくられる「プロセスそのもの」であるということだ。
 そのOSは代替不可能であり(街は代替不可能なその街の地域社会である)、どこそこの「先行事例」というものは全く通用しない。もし「まちづくり」というのがあったとしても、マーケティングだとかを導入するという発想は、極めて横着なものだと思う。

 「と、いうわけでやな『まちづくり』というのは、違うと思うんや」とK氏は語るのだ。
 市場原理主義や経済至上主義、つまり「利潤が得られるなら何でもあり」という考え方は、今や情報を軸とした資本主義の世界において「仕方がないこと」だけど、「『まちづくり』うんぬんは甚だしい禁じ手やなあ」。

 街というある種の共同体の「現場」で、「一人勝ち」が賞賛されること、すなわち「自分だけが儲かればいい」のであり、「負けるのは自己責任だ」といった、必然的に企業や会社が目指す本質がちらっとでも見えた時点で、そのプレーヤーは「まちづくり」のテーブルにつくことの資格をなくす。

 「ちょっと考えてみれば分かるやろ。その場のメンバーが自分の『勝ち逃げ』だけが目的のメンツばかりいうんは、博奕場でもなんでも成り立てへんやろ。誰もそんなとこでは遊びたくない。『勝ち逃げ』やら『親の総取り』は法律では罪ではないかもしれんけど、街場のそれは紛れもない『ズル』や。『掟破り』はそれ相応の落とし前をつけたらなあかん」
 今回はいつになく「コワい系」のK氏であった。

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江弘毅(こう・ひろき)

1958年、大阪・岸和田生まれの岸和田育ち。

『ミーツ・リージョナル』(京阪神エルマガジン社)の創刊に携わり12年間編集長を務める。現在、編集集団「140B」取締役編集責任者、神戸女学院大学非常勤講師。

著書に『「街的」ということ』(講談社現代新書)、『岸和田だんじり祭り だんじり若頭日記』(晶文社)、『ミーツへの道』(本の雑誌社)、『街場の大阪論』(新潮文庫)、『「うまいもん屋」からの大阪論』(NHK出版新書)、『飲み食い世界一の大阪〜そして神戸。なのにあなたは京都へゆくの』(ミシマ社)など。

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