みんなの落語案内

壱 3D映画なんて比じゃないよ

2014.11.25更新

 今月から、落語についてのコラムを連載させていただきます。
 去る2006年9月の天満天神繁昌亭オープンによって、大阪に60年ぶり、あるいは70年ぶりともいわれる落語の定席が復活しました。昨年8月には入場総数が100万人を超え、順調に落語ファンを拡大しています。

 その一方では、繁昌亭で次のような会話が聞こえてきたこともあります。
「今日は、みんな一人ずつ交代に出てきはるね」
「うん、そうやな。座布団も一枚しか敷いてないし」
 お解りでしょうか? この二人連れは、TV『笑点』の「大喜利」を落語だと思い込んでいるらしい。
 繁昌亭に足繁く通われるファンが増えている一方で、まだまだ落語に不案内な方も少なくないようです。そこで本連載は、落語ファンにはより深く落語を楽しんでいただけるような、ビギナーには寄席に足を運びたくなるようなコラムをめざします。


落語は究極の3D映像だ

 数年前のこと、TVに流れるCMをみた妻が「これって、CGよね?」と話しかけてきた。画面には、三つの高層ビルの屋上に跨る巨大な船が映っていた。あのシンガポールのホテルが今ほどには有名ではなかったころのことだ。私も未知のホテルだったが、「これがCGなら、船が浮かび上がるシーンも撮るはずだよ」と、思いつきの理由で否定した記憶がある。
 1980年代のCG黎明期は、如何に実写らしく見せるかが課題だった。しかし、90年代になるとCGは実写と判別し難いレベルに高まっていた。そして現在では、CGが現実を追い越した感がある。妻が実写をCGだと考えたのもむべなるかな。さらに近年は3D映像なるものが登場し、専用の眼鏡をかけて立体視できるようになった。

 さて、そのような時代にも関わらず、落語は言葉だけの芸で客を満足させている。
 落語家は観客の想像力だけを頼りに語る。客はその言葉だけを手掛かりに、脳内に噺の世界を虚構する。そこでは、登場人物の性別・年齢や職業だけではなく、顔付きや教養の度合いや性格までもが思い浮かぶ。もちろん、色彩も、奥行きも、匂いさえもがリアルに知覚可能だ。3D映像なんて足元にも及ばない。

 映画の場合も、これまでの映画で私たちは十分に奥行きや立体感を知覚してきた。時代を遡ってモノクロ映画でも、ある程度の色彩は感じてきた。黒沢明の『赤ひげ』では、三船敏郎のヒゲは確かに赤かった。グレーの濃淡だけなのに、色褪せた着物の風合いまでも感じとることができた。
 もちろん、想像力の及ばない色彩もあった。だから〈総天然色映画〉の登場は素直に嬉しかった。正確には、モノクロから一気に総天然色に移行したのではなく、〈パートカラー映画〉の一時代を経由したのだけれど。「パートカラーって何?」という世代のために説明すると、モノクロのはずが、ベッドシーンになると突然にカラーになり、男性が果てるとともに再びモノクロに戻るという不思議な映画だった。これがポルノ映画だけの手法だったか否かについては知らないけれど。

 あらぬ横道に逸れてしまった。要するに、私たちはモノクロ映画でも不自由がないほどに色彩を感じ、平面のスクリーンでも十分に奥行きを知覚してきたといいたいのだ。3D映像はその力を否定し減退させるように思えて好きになれない。

 落語は言葉だけで人物や風景を表現できる芸だというと、異論があるかもしれない。落語家は、上下(かみしも)を振って(顔を左右に向けて)登場人物を演じ別けているじゃないか、扇子を箸や煙管に見立て、科(しな)を作り女性を表現するじゃないか、という反論である。

 たしかに、その通りだ。落語家の所作が言葉を補って余りある効果をもつことは否定しない。
 だがしかし、所作を伴なわないと成り立たないかというとそれは違う。その証拠には、落語はCDやラジオでも楽しめる。上下がみえないから解りにくいという苦情は聞いたことがない(あるとしたら、聞き手の知覚力の欠如か、落語家の未熟のせいだ)。扇子の箸が見えなくても、うどんをすする擬音だけで、ダシの熱さを感じ湯気までもが見えるものだ。

 そう言えば、上方落語界で異彩を放つ笑福亭福笑師匠は高座でも上下を振らず、ほとんど正面向きで話す。いつか、その理由を尋ねたら、目からウロコの答えが返ってきた。
 それは、仮にAの右前にBが座っていると設定したとき、当然ながらAは右斜め前に向かって話す。そして、BからみてもAは右前にいることになるから、Bも右斜め前に向かって話すはずだ。だから上下を振ることは、なんら忠実な形態模写にはなっていないという。
 なるほど、真向かいで話しているとすれば、福笑師匠のように正面向きに話すのは、これこそリアルな顔の向きだということになる。上下を振ることは落語の不可欠の要素ではなかった。声質やアクセント、リズムなどで、登場人物を演じ別けていたのだ。

 だがしかし、それでも落語はライブに限る。人間の感情は、場の力に左右されるからだ。寄席が笑いに包まれるのは、落語の面白さだけではなく、他の客も笑っているからで、同じ空気の中で笑う人がいることで自身の面白さが増幅されるのだ。
 それが証拠には、同じ落語家が同じネタを演じても、その日の客席の風向きによって、笑いの総量は段違いに異なる。「落語家殺すにゃ刃物はいらぬ。あくび一つで即死する」のだ。

 寄席に行けば、客席の冷たい反応に殺されそうな未熟な落語家を見ることになるかもしれない。しかし(ここからが一番言いたいことなのだけれど)、運が良ければ、大爆笑の渦に自身も巻き込まれる喜びを経験できるのだ。そのライブ感は、専用の眼鏡に頼る3D映画なんて比じゃない。
 では、どの落語家が出るときが狙い目かと問われるなら、寄席に足を運んで確かめてくださいと答えるしかない。

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高島幸次(たかしま・こうじ)

1949年大阪生まれ。大阪大学招聘教授、大阪天満宮文化研究所研究員などを兼務。日本近世史を専攻し、地方誌史への執筆や、各種セミナーの企画なども多く行う。NPO法人「上方落語支援の会」理事や天満天神繁昌亭大賞選考委員として落語にも関わっている。

著書に『奇想天外だから史実ー天神伝承を読み解くー』(大阪大学出版会)、『大阪の神さん仏さん』(釈徹宗との共著、140B)などがある。

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