みんなの落語案内

弐 初めて聴いても面白い

2014.12.10更新

 「落語は古典芸能やおまへんで」という落語家さんは少なくない。
 古典芸能と言うと、能狂言や文楽(人形浄瑠璃)・歌舞伎などが思い浮ぶ。その定義としては、前近代から伝承されている芸能、つまり明治維新以後に流入した西洋文明の影響を受けていない芸能ということだろう。

 だとすると、江戸時代に成立した落語や講談は立派な古典芸能のはずだが、当事者たちはそうは考えていないようだ。前近代に成立した芸能であっても、大衆の娯楽に供された大衆芸能は古典芸能ではないということか。しかし、人形浄瑠璃だって江戸時代には大衆芸能だったのだから、もひとつピンとこない。
 しかし、笑福亭松喬師匠(2013年没)が落語のマクラで披露されていた古典芸能と大衆芸能の違いは、ストンと腑に落ちた。曰く「一度聞いただけでは解らないが、何度も足を運んでいるうちに面白くなるのが古典芸能。初めて聞いても面白いのが大衆芸能」というもの。
 なるほど、江戸時代の代表的な大衆芸能だった文楽も、現代では初めて聞いた客には難しくなってしまった。国立文楽劇場などでは、初心者用のイヤホンガイドが用意されているが、それは苦肉の策でしかない。
 だって、太夫の語りを聴きながら、目は舞台の人形に惹きつけられながら、舞台上方の字幕で詞章を読みながら、ときどき太夫や三味線に視線を振りながら、隣客のイビキに顰蹙しながら、ポケットの酢昆布をつまみながら、イヤホンガイドの解説に納得できる聖徳太子のような初心者がいるとは思えないから。一度や二度見ただけでは(どこかの市長のように)面白くないのが古典芸能なのだ。その点、落語は初心者であっても間違いなく面白い。

 では、その違いはどうして生じたのか。おそらく言葉の継承のしかたの違いによるのだろう。義太夫節の「床本」は江戸時代の大阪弁で書かれ、大阪弁の節づけで語られる。それは日本全国どこで公演する場合でも変わらない。だから、江戸時代には、その言葉は方言の壁を超えるための必須の教養になっていた。

 司馬遼太郎が「上方の商人は遠国の商人と話すとき、できるだけ浄瑠璃の敬語に近づけて物を言う。これに対し、武士は他藩の士と話すとき、狂言の言葉に近づける」(『菜の花の沖』2巻)という通りだ。太夫の語る言葉は、他国に出掛ける商人たちに欠かせないコミュニケーション・ツールだったのだ。

 ところが時代とともに話し言葉が変化しても、義太夫節の床本は書き変えられないから、現代人には字幕がなければ意味不明になってしまった。そういえば、能・狂言でも、国立能楽堂の座席背面には字幕を移すパーソナル液晶画面があると聞く。
 一方、落語はといえば台本はなく、むかしは「三遍稽古」といって、師匠が弟子の前で三日間にわたって同じ噺をやり、弟子は師匠の前ではメモも取らずに覚えねばならなかったという。完全な口伝だから、時代の変化に合わせて、その口調も変化してきた。上方落語が江戸に伝えられたときも、江戸っ子に判るように江戸弁に変えられ、時には噺の舞台も京・大坂から江戸に移された。

 だがしかし、文楽「曽根崎心中」が「浅草心中」になることはない。東京育ちの三谷幸喜が『其礼成心中』を書くときも「文楽は関西弁で語られますけど、僕は関西弁がしゃべれないので、なんとなくのイメージで書いて、細かいところは直してもらいました」(同公演パンフレット)というのだ。海外公演の場合でも、文楽はアメリカでもフランスでも大阪弁で語ることを譲らないが(もちろん字幕付きで)、落語の場合は現地の言葉に翻訳されることが多い。落語は時空を超えて、初めて聞いても面白くないとダメなのだ。

 とはいいながら古典落語には、いまは失われてしまった古語や風俗が出てくると理解しにくいこともある。
 たとえば『初天神』の冒頭に、形見分けの羽織をもらった夫を妻が揶揄するシーンがある。その台詞は「羽織が一枚出来たと思たら、隣りへ行くさかい羽織出せ、風呂行てくるさかい羽織出せ、この間も羽織着て便所へ行ったやないか」というもの。

 さて、隣家や風呂屋へ羽織を着ていくのはいざ知らず、そこに便所が並ぶことに違和感はないか。この便所、実は屋外にある長屋の共同便所のことなのだ。
 「大阪くらしの今昔館」には江戸時代の四軒長屋が再現されているが、その長屋の脇に外付けの便所がある。つまり、長屋の住民が便所へ行くのは、隣家・風呂屋と同じく外に出なければならず、だから羽織を着たくなるのだ。現代の屋内の便所を思い浮かべたのでは、情景が異なる。そのために最近では「共同便所」と言い換える噺家さんもいるが、それでは公園の片隅にある便所が思い浮かびはしないか。

 この手の理解しにくい例を挙げ出したらきりがない。だがしかし、少々気掛かりなことがあっても聞き流せばいい。それでも十分に楽しめるネタが選ばれて今に伝えられているのだから。古典落語とはそういうものだ。

 一度でいいから寄席を楽しんでほしい。一度で十分。だって初めて聞いても面白いのが落語なのだから、一度は二度に、二度は三度になりますって。

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高島幸次(たかしま・こうじ)

1949年大阪生まれ。大阪大学招聘教授、大阪天満宮文化研究所研究員などを兼務。日本近世史を専攻し、地方誌史への執筆や、各種セミナーの企画なども多く行う。NPO法人「上方落語支援の会」理事や天満天神繁昌亭大賞選考委員として落語にも関わっている。

著書に『奇想天外だから史実ー天神伝承を読み解くー』(大阪大学出版会)、『大阪の神さん仏さん』(釈徹宗との共著、140B)などがある。

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