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肆 落語の中の子どもたち

2015.01.17更新

 1995年1月17日の阪神・淡路大震災から20年が経った。その翌日に西宮市の職場へ駆けつけたときの情景は忘れることはできない。朝日新聞の同年3月1日の投書欄の切り抜きが今も手元にある。投書には、避難所におけるドッジボール遊びの様子が記されていた。

 三歳くらいの幼児から高校生までが一緒になって遊んでいる。
 小さい子にはやさしい球を投げ、逃げやすいように間合いを置いてやっている。

 投書主の51歳の主婦は、そのような光景を20年近くも見ていなかったという。そうだ、私が子どものころは、小学生も中高生も一緒に遊んだものだ。学校から帰ると、近くの広場(ひろっぱ)で、野球やドッジボール、鬼ごっこ、べったん(めんこ)などで遊んだ。今の子どもたちとは異なり、同学年だけで遊ぶことはなかった。幼い弟妹を置いてけぼりにしたら、親にこっぴどく叱られたから。

 幼い子どもたちは「ごまめ」として一緒に遊んだ。私たちの「ごまめ」は、野球なら三振ではなく、五振でアウトだった。ドッジボールでは、ごまめは「命」を三つ与えられていたから、ボールを当てられても2回まではセーフだった。
 大阪のごまめは神戸では「たまご」と名を変えるが、特権は健在だった。鬼ごっこでは、鬼にタッチされそうになると、両手で頭上に輪を作って「たまご!」(地域によっては「ひよこ!」)とさけべばバリアが張られるのだ。年長の鬼は、バリアを前に退散する演技でたまごを喜ばせなければならない。
 他にも、東京の「みそっかす」、和歌山の「きんかん」など、「ごまめ」の同類が全国に散在し、兄姉にまじって一緒に遊んだものだ。

 落語には数多くの子どもたちが登場するが、その遊ぶ様子は意外に登場しない。古典落語に遊郭や賭博場など大人の遊びネタは欠かせないのに、落語の世界の子どもたちはあまり遊んでいないのだ。当時は十に満たないうちから丁稚奉公に出されたり、家業の手伝いをしていたからだろうか。
『薮入り』では、奉公に出た亀ちゃんは3年後の薮入りで初めて実家に帰ることができた。里心がつかないように3年もの間、親に会わせてもらえなかったのだ。『蜆売り』に登場する12、3歳の子どもは、雪の降る朝のうちから川中のシジミを採りに出掛け、それを売り歩くのが仕事だった。アカギレの小さな手には血がにじんでいた。
 その一方では、仕事の合間に観劇にうつつを抜かす丁稚の噺も少なくない。『七段目』では、丁稚の定吉は「忠臣蔵」七段目のお軽に扮して、平右衛門役の若旦那の相手を務めるほど芝居に精通していた。『蔵丁稚』の定吉も、島之内へ使いに出たついでに道頓堀で「忠臣蔵」五段目を観るほどの芝居好き。『蛸芝居』の定吉も、芝居仕立てで仏壇を掃除するという具合だ(落語に登場する丁稚は「定吉」が決まり名)。

 このように、落語の世界では働く子どもが多いのだが、『佐々木裁き』や『いかけや』には、江戸時代や明治期の子どもが無邪気に遊ぶ様子が描かれている。『佐々木裁き』の四郎吉たちが遊ぶのは、東横堀川に架る末吉橋の南西方向の「住友の浜」だ。住友の屋敷があったこの浜は、『次の御用日』でも、とぉさん(嬢さん)と丁稚の常吉が天王寺屋藤吉に驚かされた地として登場する。
 現在、我が国現存最古の撞球場が建つが、かつて住友本邸にあったものだ。その東向かいのワインバーは私のお気に入りだが、それは小文の論旨にまったく関係ない。

 住友の浜の材木置き場で、子どもたちは奉行ごっこをしている。後ろ手に縄で括られた二人がしょっ引かれて、町奉行・佐々木信濃守役の四郎吉の裁きを受けるのだ。それを5、6人の子どもたちが周りで見守っている。この四郎吉の頓知の効いた裁きぶりが面白く、またそれを見ていた本物の信濃守と四郎吉のやりとりも痛快だ。ここに集う10数名の遊び仲間には「ごまめ」も混じっていたにちがいない。弟妹にも役割を与えて一緒に遊んだのだ。ごっこ遊びとはそういうものだ。

 年齢差のある遊び仲間は、『いかけや(鋳掛屋)』にも登場する。鋳掛屋とは、鍋や釜などの鋳物製品の修理・修繕を行う職人で、注文を取りながら移動して道端で作業した。
 鋳掛屋のオッサンが、溶接用のフイゴ(送風器)のために火を熾(おこ)しているところへ、近所の長屋から「きっちゃん、たけやん、うめやん、まっちゃん」たちがやってくる。彼らは入れ替わり立ち替わり、チームプレーよろしく、オッサンをからかうのだ。
「オッタン」と呼びかける小さな子から、「オヤジ」と高飛車に呼びかける悪ガキもいる。「お子さんは和子(男子)さんでやっか、姫御前(女子)でやっか?」とませた口を聞く大人びた子がいるかと思えば、舌足らずなため「そらそやなぁ」と相槌を打てず、「とらとやな」と発音する幼児もいる。明らかに、年齢差を超えた遊び仲間がつるんでいる。
 ちなみに、『いかけや』を十八番にする桂春團治師匠の一門新聞は、この「とらとやな」をタイトルに採っている。

「ごまめ」に話を戻そう。少なくとも70年代になっても、大阪にごまめは存在していた。その後の生活環境や教育環境の変化がごまめを駆逐し、同学年だけの遊び仲間を主流にしてしまった。
 もう一度、ごまめを復活できないものか。どんなごまめも、やがてはごまめを見守る立場になり、さらにはごまめを指名する役目を担うのだ。サッカーでいえば、ゴールキーパー、ディフェンダー、ミッドフィールダー、フォワードの全てを経験するようなものだ。ごまめを慈しみながら、自身の立ち位置を模索ずる、実に豊かな時空だった。
『佐々木裁き』や『いかけや』には、そんな時代が描かれている。落語の世界には、今もあのころの子どもたちが楽しそうに遊んでいる。20年前のあの日にタイムスリップしたくはないけれど、寄席に行けばごまめの時代にスリップできるかもしれない。

《締めの謎掛け》
ごまめとかけて、下手な落語を聞いた客と解く。その心は・・・、どちらも「歯ぎしり」するでしょう。チャン、チャン。

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高島幸次(たかしま・こうじ)

1949年大阪生まれ。大阪大学招聘教授、大阪天満宮文化研究所研究員などを兼務。日本近世史を専攻し、地方誌史への執筆や、各種セミナーの企画なども多く行う。NPO法人「上方落語支援の会」理事や天満天神繁昌亭大賞選考委員として落語にも関わっている。

著書に『奇想天外だから史実ー天神伝承を読み解くー』(大阪大学出版会)、『大阪の神さん仏さん』(釈徹宗との共著、140B)などがある。

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