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漆 なにわなんでも難波橋

2015.04.08更新

 大雑把にいうと、琵琶湖から流れ出た瀬田川は京都で宇治川、大阪で淀川と名を変えて大阪湾に注いでいる。その下流付近の毛馬閘門で分流した大川は大阪市の中心部を西流する。もともとは、この大川が淀川本流だったが、明治43年(1910)に現在の淀川河口部が開削されたため、大川はその支流に格下げされた。開削後しばらくは、新流路は新淀川、大川は旧淀川と呼ばれた。

 古典落語に登場する淀川は、当然ながら大川のこと。伏見から宇治川を下航する三十石船も、大川の八軒家(天満橋南詰)に着岸する。大阪弁を揶揄する「ヨロガワノミルノンデハラララクラリ(淀川の水飲んで腹だだ下り)」も、実は大川を思い浮かべて発音するのが正しい。

参謀本部陸軍部測量局「2万分の1仮製地形図」(明治17~23年)
中之島の東端はすでに難波橋の上流に達している。現在の中之島はこの地図の難波橋と
天神橋の間に浮かぶ中州を取り込んで、その東端を天神橋の上流にまで延伸している。



 大川に架る天満橋・天神橋・難波橋は、江戸時代には「浪速三大橋」と賞された。なかでも難波橋は古典落語によく登場する。しかし、当時の難波橋辺りの地形は現在とはかなり異なっていた。大川の中州である中之島は、江戸時代にはその東端が難波橋の下流、現在の東洋陶磁美術館辺りにあり、難波橋は大川を一気に跨ぐ大橋だった。その後、中之島は上流部に浮かぶ中州を取り込んで島域を拡大し、難波橋を越え、その上流に架る天神橋よりさらに上流側に突き出すことになる。この中之島によって大川は堂島川と土佐堀川に分かれるため、現在の難波橋は中之島に橋脚を構えて両川を跨いでいる。
 しかも、江戸時代の架橋場所はいまの堺筋ではなく、一筋西側(下流側)の難波筋だったからヤヤコシイ。難波筋に架っていたから「難波橋」だったのに、明治45年(1912)に市電を延伸する際に、堺筋に架け替えてしまったのだ。それなら「堺橋」と改名すべきだと思うが、「浪速三大橋」の名は残しておきたかったのだろう。

 落語『遊山船』では、裏長屋に住む喜六と清八が難波橋へ夕涼みに出かける。橋の上やたもとでは、冷やした西瓜や、枇杷葉湯(びわようとう=ビワ葉の煎汁)などの夜店が並び、川面の遊山船(船遊びの屋形船)では御大尽が芸妓遊びの音曲を響かせている。その遊山船に並走して飲食物や芸を売る茶船(小さな通い船)も数知れず。この茶船の群がる様子は、まるでベトナム・メコン川の水上マーケットさながらの光景だ(テレビで見ただけで、行ったことはないけれど)。

 また『船弁慶』でも、喜六・清八は女房に内緒で、難波橋上流での船遊びに興じる(この「喜六・清八」は江戸落語の「八っつぁん・熊さん」と同じく、上方落語に定番の名前です)。その後、喜六の女房お松も夕涼みに出掛け、偶然に難波橋上から船上の夫を見つけてしまう。怒ったお松は小舟で漕ぎ寄せて夫をなじるが、喜六は清八の手前もあり、お松を川へ突き落とす。しかし、幸いなにもそこは浅瀬で、立ち上がれば膝下くらい。

 この場面について、ある落語本は「お松は川の中へドブーンと落ちる。幸い夏場のことで水は腰までしかない」と説明するが、それはおかしい。もしその説明が正しければ、大川は夏季のたびごとに船の航行が不自由だったことになる。明治中期の地図(図参照)をみれば、難波橋の上流に、つまり当時の中之島の上流に中州が描かれている。お松は、この中州形成途上の浅瀬に落ちたのだ。俳人の島道素石は、明治中期のこの辺りの情景を次のように描写している。

 何んといっても浪花の納涼は大川であった。天満橋下流難波橋迄の中間は その頃、洲の砂原があって角力や鬼ごっこが出来たのだ。豊年屋が頭に盥を載せて踊っても見せた。浜々の雁木には通船(小納涼舟)が客待ちをしている。誠にのんきな風景であった。夕暮れともなれば四方から集る船々、大家形、小家形、紅梅、さては新地の蜆川から粋なのも流してくる。そして花火舟、新内船、物売舟、酒舟に按摩舟まで交って夜の大川は偉観を呈したものだ。  
                    「大川納涼」『上方』31号(1933年)


 お松が落ちた浅瀬は、このころには相撲や鬼ごっこで遊ぶ中州になっている。「豊年屋」とは、豊年踊りの大道芸人で、「紅梅」は最小の屋形船のこと。北新地を流れる蜆川からは芸妓遊びの船が大川に漕ぎ出してくる。それらの船を目当てに物売りだけではなく、新内や按摩の船まで出るのだから、まるでメコン川の・・・、いやベトナムに新内節はなかった。

 船遊びの途中、この中州に上陸するのは趣向の一つだった。島道素石とほぼ同時代の詩人・高安月郊も当時の中州付近の光景を活写している。

 大川へ出ると、風は俄に舟の灯を煽ぐ。舷を扇で叩いて、謡曲、浄瑠璃うなりながら、鮒卯、芝藤、日出などの舟生洲へつけて料理をあつらえ、舟へ運び入れて更に遡る。我等の子供の頃などは浪華橋と天神橋との間に中洲があった。それへつけて上がるもあり、暫く休むと寄って来るのは果物の舟、善哉の舟、鮨の舟、花火の舟、落語の舟、此方の舟で飲み食いして、彼方の舟の芸を見聞きする。一つ済むと互いに離れる。
                     「水の都」『畿内見物』(1912年)

 夕涼みの船上で、謡曲・浄瑠璃・落語を楽しむとは、なんと風流な。「うらやましい!」という方は、ぜひ木谷千種の日本画「浄瑠璃船」をネット検索してくださいな。淀屋のいとはんが乗る船に並走する浄瑠璃語りの船から『冥途の飛脚』「新口村」の段が聞こえてきますから。
 料理を誂えてくれる「舟生洲」とは、2、3艘の屋形船を一連に繋ぎ、その一艘を割烹船、他船を座敷船として食事を供する、まさに水上料亭だ。舟生洲を出していた「鮒卯」は網島町にあった老舗料亭「鮒卯楼」、「芝藤」は高麗橋に今も経営する鰻の「柴藤」だろう。

 同じ落語でも『骨釣り』では、風情の違う中州が描かれる。噺の前半では若旦那が芸妓や太鼓持ちの繁八を連れて木津川へ釣りに出掛ける。繁八はドクロを吊り上げてしまい、寺院に立ち寄って回向して帰ると、夜に美しい女性(実はドクロの主)が訪ねてくる。その様子を窺っていた隣人が、同じ恩恵に預かろうと大川に漕ぎ出すのが後半。魚は釣れてもドクロは釣れず、小便をしようと中州に上がると、びっしり生えた葦の中にドクロが・・・。そのオチはさておき、この噺では中州の様子が不気味だ。『骨釣り』は中国・明代の『笑府』にある原話を、大川の中州に置き換えた噺だから仕方がないか。

 この上方落語の『骨釣り』を東京に移すと『野ざらし』になるが、その主人公が釣りをするのも「大川」だから紛らわしい。最近は『野ざらし』バージョンでやる上方の噺家さんもいるから、大阪のお客さんたちは、この「大川」を旧淀川だと思い込んでいるに違いない。しかし、それでは「四方(よも)の山々雪解けて、水かさ増さる大川の」のフレーズに違和感が残る。旧淀川=大川に四方の山々の雪解け水は流れ込まない。実は、この「大川」は隅田川のこと、浅草に近い吾妻橋あたりから下流を「大川」というのだ。

 話を『船弁慶』の浅瀬に戻す。お松さんが落ちたところが浅瀬だったというのは、落語の御都合主義ではなかった、ちゃんと当時の地形を踏まえていたのだ。落語を聞かなければ、昭和初年まで難波橋付近が夕涼みの名所だったなんてことも知らないままだ。現在の中之島の島影が、上流の中州を取り込んで拡大形成されたなんてことも知るよしもない。
このようにみると落語はなかなかのものだ。当時の風俗や地形史まで教えてくれるのだから。そのうえ、面白く楽しませてくれるのだから、うん! 繁昌亭に行こう。

《締めの謎掛け》 「魚釣り」とかけて「骨釣り」と解く。その心は・・・、どちらも「チョウカ(釣果・弔花)」が気にかかります。チャン、チャン。

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高島幸次(たかしま・こうじ)

1949年大阪生まれ。大阪大学招聘教授、大阪天満宮文化研究所研究員などを兼務。日本近世史を専攻し、地方誌史への執筆や、各種セミナーの企画なども多く行う。NPO法人「上方落語支援の会」理事や天満天神繁昌亭大賞選考委員として落語にも関わっている。

著書に『奇想天外だから史実ー天神伝承を読み解くー』(大阪大学出版会)、『大阪の神さん仏さん』(釈徹宗との共著、140B)などがある。

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