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捌 落語・花街・遊女の手紙(上)

2015.05.11更新

四花街の個性

 江戸時代の大坂には、新町・南地・堀江・北新地の四花街があった。南地は、さらに宗右衛門町・九郎衛門町・櫓町・坂町・難波新地の五地区に分かれるので、南地五花街とも総称される。近代に入ると、他にも西区の松島新地、西成区の飛田新地などが生れている。
 「花街」は「かがい」と読むのが正しいが、最近は「はなまち」と読む人のほうが多いかも知れない。1973年の金田たつえのヒット曲『花街(はなまち)の母』の影響だろうか。同曲の少し前に発売された三善英史の『円山・花町・母の町』では、表記も「花町」だった。ちなみに「北新地」も「きたのしんち」が正しく、JR東西線「北新地駅」の「きたしんち」のルビ表示は歴史的にはしっくりこない。

 「花街」は「遊郭」ともいい、「芸は売っても体は売らぬ芸妓」と「そうではない娼妓」が働いていた。1958年の「売春防止法」施行により、後者は廃止された(ことになっている)が、花街を舞台にする落語には両者ともに登場する。
 江戸時代の新町は、大坂で唯一の幕府公認の花街として、京都の島原遊廓、江戸の吉原遊廓とともに「三大遊廓」として賑わった。公認の花街は、遊女の最高位である太夫を抱えることができた。上方落語の『冬の遊び』に栴檀太夫が登場すると、それだけで新町が舞台だと判るのだ。実在の太夫としては、新町の夕霧太夫、島原の吉野太夫、吉原の高尾太夫が知られている。
 北新地には、中之島の蔵屋敷や大坂城の武士たちが通い、南地は町人が多かったという。上方落語『辻占茶屋』(江戸落語では『辰巳の辻占』)では、鍛冶屋の源やんは「お前が遊びに行くねさかいに、どっちみち南ちゃうか?」と冷やかされるが、図星に難波新地の馴染みだった。

 近代になっても、その風は受け継がれ、南地は船場の旦那衆が、曽根崎新地は官公庁のお役人たちが中心だったらしい。さらに、そこで働く芸妓の気質も四花街で異なっていたと聞いた。上方舞(西川流)師範の西川梅十三さんから「色の新町、浮気な南、野暮な堀江に、実の北」という惹句を教えていただいた。梅十三さんが、まだ北新地の芸妓に出てはったときに、お客さんに教えてもらったそうだ。他の花街で遊ぶときには歌詞をアレンジしたのだろうか、堀江のお座敷で「野暮な堀江」とは唄えない気がするから。
 この四花街の芸妓評が妥当か否かは、初心(うぶ)な私には判らない。それでも、四代桂米團治の『代書』で無筆の客が「松島」へ女郎買いに行き、三代目桂春團治の『代書屋』では「飛田」へ行くのを聴くと、この憎めない男には、四花街より松島や飛田がよく似合うと納得してしまう。初心な私にだって、それくらいのことは判るのだ。


『三枚起請』―小輝の場合―

 上方落語『三枚起請』は難波新地の遊女・小輝が(江戸落語では、吉原の遊女・喜瀬川)、起請誓紙を取り交わしていた三名の客から難詰される噺だ。この場合の起請誓紙とは、「遊女奉公の年季が明けたら、あなたと結婚します」という誓約、いわば愛の証しだといえる。それなのに、小輝は同文の誓紙を少なくとも三人の客に手渡していたうえに、誓紙を石版印刷して配りたいと言い出すのだから、相当な阿婆擦れ(あばずれ)だ。
 小輝が書いた誓紙の文面を桂米朝さんの口演から再現すると次のようになる。平仮名ばかりで実に読みにくいが、あとで解説しますので。

 ひとつてんはつきしやうもんのこと、わたくしことねんあけさふらへば、あたさまとふふになりさふらうことじつしやうなり、ごじつのためよってくだんのごとし、うつぎみせこてることほんみやうたね、げたやきろくさま

図1矢印の先の点が「候」。
これで「罷在候」と読む。

 仮名ばかりのうえに、「あなたさま」を「あたさま」、「ふうふ」を「ふふ」と書くものだから余計に読みづらい。この誓紙を読みあげたあとに、「本字で書いといてもらえ、読みにくうてしゃないがな。ちょぼ一つ打ったかて候になるのやがな」の台詞がある。「本字」とは漢字のこと、つまり、漢字交じりでなければ当時でも読みにくかったのだ。「ちょぼ一つ」を打てば「候」というのは、図1の通り、崩し字では、前の字から筆を流して点を打てば「候」になることをいっている。崩し字の候文に馴染みがなくなった現代では理解しにくい台詞だ。さて、この誓紙を漢字交じりに体裁を整えれば以下のようになる。

     一、天罰起請文之事
私こと、年明け候へば、貴方様と夫婦になり候こと実証也、
 後日のため、依って件の如し
宇津木店 小輝こと、本名たね
 下駄屋喜六様


 古文書学的には、表題に「一」を付けるのは間違いで、本文の冒頭に付けて「一、私事・・・」と書き始めるのが正しく、また年月日も書かないと発効しないのだが、それはさておき、文末の「依って件の如し」は証文などに使われる定番の結語だ。

 「件」とは、牛の身体に人間の頭という〈人面牛〉のこと。江戸時代には「件」が生れたことを知らせる瓦版も発行されており、その説明には「至って心正直なる獣」とある。そこから嘘の神様だという俗信がうまれたようだ。近代になると、「件」は人間の身体に牛の頭を持つとの異説も現われるが、漢方の「神農さん」が牛頭人身だったことの影響だろうか。神農については、このミシマガジンでも津田篤太郎さんが紹介されていたっけ(「ヘンテコ医学史漂流記」第3回)。いやしかし、神農の姿はすでに江戸時代には伝わっていたのだから、この異説は、ギリシャ神話の「ミーノータウロス」の影響とみたほうがいいかもしれない。いずれにしろ「件」は「伴」の譌字なのだから、その字体にこじつけた解釈はあてにならないのだが。それでも「件の如し」は「嘘を司る件に誓って嘘偽りはありません」の意味として、江戸時代の証文には欠かせない結語になっていた。

 「件の如し」は、上方落語の『延陽伯』(江戸落語では『たらちね』)にも登場する。京都の公家に奉公して丁寧すぎる言葉遣いになってしまった女が、裏長屋の男に嫁いで珍騒動が起こる噺だ。そのオチでは、女が眠っている男を起こしながら「ご飯も冷飯に相なり候へば、早く召し上がって然るべう存じたてまつる、恐惶謹言」と声をかける。すると男は「おいおい、脅かしちゃいけねぇよ。飯を食うのが『恐惶謹言』なら、酒を呑むのは『よって件の如し』か」と応えるのだ。
 「恐惶謹言」は証文類ではなく、通常の手紙で用いられる結語だが、かなり丁寧な表現だ。より厚くなら「恐惶恐白」、薄くなら「恐々謹言」になる。『延陽伯』の男は、この「恐惶謹言」を受けて「よってく件の如し」と返したのだが、いうまでもなく「依って」と「酔って」をかけている。

 小輝の手紙に話を戻す。差出人に添えている「宇津木」は、小輝の所属する置屋の名だ。この証文は年季が明けた後の結婚を約束するものだから、宇津木における源氏名「小輝」だけではなく、本名の「たね」を添えているところが妙にリアルだ。よくできた落語には、このような真実味が底流しているものが多い。

 ところで、小輝が仮名だけで手紙を書いたからといって、漢字が書けなかったと決めつけてはならない。江戸時代後期の随筆『萍花漫筆』には、遊女の仮名書きについての面白い逸話が載っている。江戸吉原の遊女・雲井は、幼いときから俳諧を談林派七世の谷素外(1717~1809)に学び、書は佐々木文山(1659~1735)に習った。文山は唐様の書体をよくした書家だから、雲井もそれを修得したのだ。唐様については、「売家と 唐様で書く 三代目」という有名な川柳がある。初代が築き上げた店を、趣味に走った三代目が潰してしまうことの風刺だが、当時の唐様に対するイメージがよくわかる。
 雲井は19歳で遊女になってからも、唐様で手紙を書いていた。そこで、ある客が「女の四角なる文字を書くこと、高慢に見えて心にくきものなり」と評して、その文字を金子百両で質物にとり、以後は雲井に仮名文字しか書かせなかったという。先の阿婆擦れの小輝に唐様が書けたとは思えないが、だからといって漢字が書けないと決めつけないでやって欲しい。

 さらに、小輝が「貴方様」を「あたさま」、「夫婦」を「ふふ」と書いたことについても、落語ではその無学を笑うくすぐりになっているが、これも小輝が無学のためだと決めつけないでやって欲しい。江戸時代までは「耳の時代」だったのが、明治以降に「目の時代」になった。つまり、江戸時代はその読みを耳で聞いて通じればそれでよかったのだ。現代は目で読んで正しい表記か否かを重視するが、それは明治以降に、唯一の正解以外は全て間違いとする教育が広まってからのことだ。江戸時代には「少右衛門」が自身の名を「庄右衛門」や「しょえもん」と書いても、なんの不自由もなかった。「あたさま」「ふふ」を嘲笑するのは、目の時代の文化でしかない。

 「耳の時代」で思い出した。福澤諭吉が適塾で学んでいたころ、手塚という塾生がいた。福澤らは、手塚をからかうために、手塚に宛てた北新地の遊女の手紙を偽作する。遊女の筆らしく、宛名には「鉄川様」、書中には「ソレあのとき役足のじゃこはどておます」と書いた。「手塚→テツカ→鉄川」と連想してわざと間違えておいたのは、そのほうが本物らしくみえるからだ。手塚が「私は鉄川ではない、手塚だ」と受け取りを拒否しないのが耳の時代、目の時代の現代なら、配達先不明で返されるに違いない。その文面も「それ、あのとき約束の麝香はどこでおます」と書くべきだが、そんな細かいことにはこだわらなかった。耳の時代の表記は実におおらかだったのだ。
 ちなみに、この手塚とは、漫画家の手塚治虫の曽祖父にあたる手塚良仙(良庵とも)のこと。治虫の漫画『陽だまりの樹』(小学館文庫)にも、この偽手紙のエピソードが描かれている。


《続く》

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高島幸次(たかしま・こうじ)

1949年大阪生まれ。大阪大学招聘教授、大阪天満宮文化研究所研究員などを兼務。日本近世史を専攻し、地方誌史への執筆や、各種セミナーの企画なども多く行う。NPO法人「上方落語支援の会」理事や天満天神繁昌亭大賞選考委員として落語にも関わっている。

著書に『奇想天外だから史実ー天神伝承を読み解くー』(大阪大学出版会)、『大阪の神さん仏さん』(釈徹宗との共著、140B)などがある。

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