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拾弐 変幻自在の尿瓶(下)

2015.07.09更新

『尿瓶の花活け』の種本

 落語『尿瓶の花活け』に戻る。この噺の元ネタらしいものが、7種の軽口本(かるくちほん=笑話集)に載っている。それぞれに、主人公の素性は様々で、尿瓶を何と勘違いするかの趣向も異なっているのが面白い。尿瓶は何かに見立てられやすい運命のようだ。

 まずは、①『軽口福徳利』巻三(1753年)に載っている「しゅびん」と題する噺から。
 主人公の「田舎者」が瀬戸物屋で「溲瓶(しゅびん)」を見て「これは重宝な物」だと十個も買い求める。不審に思った店主が尋ねると、国元での「椀飯振舞(おうばんぶるまい=盛大な饗応)」の際に蕎麦を打ち、これを「辛味注(からみつぎ=蕎麦徳利)」にすると答える。
 まだ田舎には尿瓶が普及していない18世紀中ごろの噺だ。「溲」は小便の意。溲瓶は、ポルトガル語の「シュビン」が訛ったというが真偽はしらない。「蕎麦徳利」に間違えるのだから、A類の尿瓶だろうか。それにしても、10個もの尿瓶が並ぶ宴会風景は愉快だ。どなたか落語家さん、改作落語『尿瓶の蕎麦徳利』を演ってくれませんか。

 次に②『軽口豊年遊』巻三(1754年)から「しびんの花生」の噺。
 「文盲な男」が、自宅に客を迎えるにあたり「何ぞ珍しき物」に花を生けてもてなそうと思い、尿瓶を買って来て花を生けておいた。客が「これは尿瓶では?」と問うと、男は、「いや、そのような名の有る物ではございません」と答える。
 同書はのちに③『軽口太平楽』(1773年)と改題して再刊され、また④『うぐひす笛』(1781年頃)にも「溲瓶」として再録されている。落語『尿瓶の花活け』は、この系譜に連なる。尿瓶だと指摘されて「そのような名の有る物ではございません」と答えるのは、落語で「しびん」を作者名だと勘違いするヒントになっている。

 ⑤『口合恵宝袋』巻之五(1755年)の「しゆびん」は、茶道の世界が舞台だ。
 俄かに茶の湯を習いだした男が、珍しい茶道具を求めて清水坂へ行き、尿瓶を古手の良い「水翻(みずこぼし)」だと勘違いして買い求める。来客に良い掘り出し物を入手したと自慢すると、来客は「これは珍しい尿瓶だ」と皮肉った。それでも男は平気な顔で「よく見ろ、弘法大師の時代のものだ」と答える。
 ここでは主人公の素性は判らないが、茶の湯と尿瓶のミスマッチが面白い。「水翻」とは、茶碗をすすいだ水を捨てる茶道具「建水」のこと。「水翻」と勘違いしたうえに、茶の湯がまだなかった弘法大師の時代のものだといって恥を重ねている。
 落語『火焔太鼓』にも、人のいい古道具屋が「平清盛の尿瓶」を仕入れて損をしたという台詞がある。当時の人々が、茶の湯や尿瓶が比較的新しい文化だと知っていたからこそ、弘法大師や平清盛の名を聞いて「そんなアホな」と笑えたのだ。

 漢文笑話集の⑥『善謔随訳』(1775年)にも類話が見えるが、題名はない。
 主人公の「田舎翁」が都下で溲瓶を花瓶と間違って買い、花を生けて「雅器」を得たと誇る。都から来た客が「豈(あに)虎子(しゅびん)に非ずや」といえば、翁は「何の名かあらん」と答える。
 主人公を田舎者とするのは①に、花器に間違うのは②に通じる。客が「これが尿瓶でないことがあろうか、きっと尿瓶に違いない!」といい、翁は「そのような名の有るものではない」と答えたのだ、大仰な漢文口調の会話が滑稽だ。どなたか落語家さん、漢文落語『尿瓶之花器』を演ってくれませんか。

 なお、尿瓶を「虎子」と表記するのは中国語。中国の尿瓶が虎の子の形をし、その丸く開いた口から用を足す形をしていることによる。しかし『尿瓶の花活け』のなかで、「口偏に虎」と書いて「しびん」と読むというのは、真っ赤なウソだ。「口偏に虎」と書けば「カ」や「コウ」と読み、虎の吠え声を意味する。「虎子」から連想したウソだろう。

 ⑦『新製欣々雅話』(1799年)の「尿瓶」。
 「俄か分限者」が古道具屋で尿瓶を花器と間違う。掘り出し物だと買い求め、花を生けて床の間に置く。「目利き」を頼んだ古道具屋は「しびん」だというが、分限者は「正のしびんならばいいのだが」と答える。
 主人公を「俄か分限者」とすることにより、「さもありなん」感を丸出しにしている。「しびん」だと指摘されて、②と同じく作者の名だと早合点するのだが、その台詞が異なる。②では「名の有る物ではございません」だったが、⑦では「本物のしびんなら良いのだが」という。贋作でなければいい、という思いは、いかにも「俄か分限者」らしい。

 以上の元ネタでは、主人公の素性は「田舎者」「文盲な男」「俄か茶人」「田舎翁」「俄か分限者」と多彩だが、鳥取藩士は出てこない。これらの軽口本などの小噺を元に、何人もの手が加えられて落語は成立していくのだが、落語化にあたって「鳥取藩士」に設定されたようだが、その理由は判らない。鳥取県へのスターバックスの進出が遅かったのは、この鳥取藩士のメージが災いしたのかもしれない(そんなアホな)。

 落語『尿瓶の花活け』では、以下のようなオチが付く。尿瓶だと知った武士が古道具屋へ怒鳴りこむが、店主にうまく騙されて帰る。その様子を見ていた店主の知人は、武士が尿瓶代の返却を求めなかったことを褒めたが、店主は「小便はできん。尿瓶は向こうにあるから」というのがオチ。この場合の「小便」とは、契約の解除を意味する大阪弁で、尿瓶は武士の手にあるのだから売買の解約はできないということだ。

 ところが、この「小便」を「何も買わない冷やかし客」の意味だとする誤解がある。『正直咄大鑑』(1694年)は、「左小弁道明卿」が江戸・日本橋の骨董屋で値切った挙句に買わずに帰った逸話を紹介して、その官職の「小弁」に「小便」を懸けて語源になったとする。「左小弁」に任じた平安貴族の藤原道明(856~920)が、江戸・日本橋で買い物できるわけがないのにね。
 ちなみに、「蛙(かわず)の面(つら)に小便」が語源だという説もある。「蛙」と「買わず」を響かせて、そこに「小便」を連想させたというのだ。さらにちなみに、渥美清さんの、いや寅さんの「粋なねえちゃん立小便、大したもんだよ蛙(かえる)の小便」の啖呵は、蛙の小便は「田へしたもんだ=大したもんだ」の洒落だから、いまは関係ない。それはともかく、「小便」を「冷やかし客」の意味にとったのでは、この落語はオチない。

 最後に私の好きな俳人、秋元不死男(1901~77)の尿瓶の一句を紹介して稿を終える。

 春惜しむ 白鳥(スワン)の如き 尿瓶持ち

 不死男は、戦場の光景を想望する「戦火想望俳句」を詠み、治安維持法違反で投獄された経験を持つ。その妹が劇作家の秋元松代だ。彼女の『近松心中物語』(蜷川幸雄演出)はすばらしい脚本だった。この芝居は、・・・と書きたいが、それでは稿が終わらない。

 不死男は晩年に直腸癌を摘出している。この句はその術後の作だろう。尿瓶を「辛味注」「花活け」「水翻」に間違うのも面白いが、ガラスの尿瓶を「スワン」に見立てる洒脱さも見習いたいものだ。


《締めの謎掛け》
「三十石船」とかけて、「高齢客が多いのに尿瓶がない」と解く。その心は・・・、「万事休す(婆爺急須)」。チャン、チャン(蛇足ですが、「婆爺」は「ばんじ」と読みます)

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高島幸次(たかしま・こうじ)

1949年大阪生まれ。大阪大学招聘教授、大阪天満宮文化研究所研究員などを兼務。日本近世史を専攻し、地方誌史への執筆や、各種セミナーの企画なども多く行う。NPO法人「上方落語支援の会」理事や天満天神繁昌亭大賞選考委員として落語にも関わっている。

著書に『奇想天外だから史実ー天神伝承を読み解くー』(大阪大学出版会)、『大阪の神さん仏さん』(釈徹宗との共著、140B)などがある。

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