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 天満天神繁昌亭は、今年9月15日で杮(こけら)落しから9年目を迎える。
 2006年のこの日、「大阪くらしの今昔館」(大阪市北区天神橋6丁目)の前から一台の赤い人力車が出発した。人力車に乗るのは三代目桂春團治、曳くのは上方落語協会会長の桂三枝(現、6代文枝)。人力車は天神橋筋商店街を南下し、大阪天満宮へ参拝後、繁昌亭に到着した。繁昌亭の杮落しを祝う華々しいイベントだった。
 この人力車は、いうまでもなく初代春團治が寄席から寄席を駆け巡ったという伝説に基づくもので、桂三枝の発案により繁昌亭のために再現されたのだ。その経緯は、杮落しの日に発行した小冊子『赤い人力車の真実』に記したが、9周年を機に以下にそれを再録させていただきたいと思う。

拾肆 赤い人力車の真実

2015.09.23更新

富士正晴による伝説の検証

 上方演芸の資料館「ワッハ上方」には、初代桂春團治(1878~1934)が乗ったという「赤い人力車」が復元されている。入館者が席に座ると、正面のスクリーンに法善寺界隈のアニメーションが映し出され、月亭八方と鈴木美智子のナレーションが流れる仕掛けだ。八方が車上の春團治を、鈴木が道行く御寮さんを演じ、二人の巧みな会話によって、大正初期にタイムスリップさせようという趣向である。

 このように「ワッハ上方」に展示されるほど、春團治の「赤い人力車」は周知の伝説となっている。しかし、春團治の評伝を書くために関係者や資料を博捜した富士正晴は、この伝説を明確に否定する。

赤俥に乗ったとか、それは明治四十四年だったという文献があるなどといわれている。しかしそれは、妻だったトミが全然否定しているから具合が悪い(中略)。ずっと後、吉本興行に入った時代にも、女中だった向井くら(今は松原姓)、二代目小春(玉野博康)、二代目小春團治(林龍男・花柳芳兵衛)がみな赤俥は知らないと言う。
(富士正晴『桂春團治』講談社文芸文庫)


 春團治の妻だった東松トミの証言を持ち出されては、納得せざるを得ない。しかも、富士は、「赤い人力車」伝説が生み出された背景までも推測している。それは、三代目桂文三が乗っていた「赤俥」の話が、いつの間にか春團治伝に取り込まれたというのである。文三については、当時の落語相撲の番付に「赤俥文三」の四股名(しこな)がみえているから、この推測には説得力がある。別人の逸話が、より有名な人物に仮託されて広まることはよくあることだ。

 後年に、東松ふみ子が「父・桂春團治の思い出」のなかで「まだ車の珍しい時代に、派手な人力車に乗ってはった」と証言しているが、ここでも「派手な」とは言っているが、「赤い」とは表現していない(豊田善敬『桂春團治―はなしの世界―』東方出版)。
 では、どのように「派手」だったのか。春團治は、人力車の提灯に「春團治」と墨書させ、「春團治」の文字を染め抜いた法被を着た車夫に牽かせていたという(富士正晴「東松トミの半生」『桂春團治』)。この「派手」が人々の記憶に残り、そこに文三の「赤俥」が結びついたのだろう。


長谷川幸延による伝説の普及

 文三から春團治に乗り移った「赤い人力車」伝説が、今日のように人口に膾炙するようになったのは、長谷川幸延の『小説桂春團治』の影響が大きいようだ(『オール読物』1951年12月号初出。のち加筆して1962年5月に角川書店から出版)。長谷川は、次のような印象深い場面を創作している。

 「春團治が、自前の俥を持ちよった・・・」 という評判は、たちまち楽屋から楽屋へと伝わった(中略)。落語家仲間の、口の悪いのが  「ふん。自前の俥なんて、まだ早い。春團治め、ふところは火の車のくせに・・・」 春團治は、その噂が耳に入るとすぐ  「火の車か。うん、ええこといいよった・・・」  と、膝を叩いた。そして、即座に俥を、赤い漆で塗りこめた。梶棒も、蹴込みも赤く、布團までも紅くした。そして  「これがほんまの、火の車じゃ」  ひそかに、ニヤリと北叟笑(ほくそえ)んだ。  こうして「赤い人力車」伝説に「火の車」の由来を与えた長谷川は、小説の最後を次のように締めくくっている。  あの赤い人力車は、弟子の福團治――二代目春團治が家宝として秘蔵していたが、戦災につぐ二代目の死で、果たして今、健在かどうかはわからないようである。


 「小説」とは解っていても、練達の作家の手管にかかると、「赤い人力車」は俄然と真実味を増してくる。まもなく長谷川の小説は、館直志(渋谷天外)によって脚本化され、東宝映画で森繁久弥が、松竹新喜劇で藤山寛美が春團治を演じ、「赤い人力車」伝説は急速に広まった。最近では、寛美十三回忌追善公演と銘打って、沢田研二と中村勘九郎(のちの勘三郎)が、春團治を演じたことは記憶に新しい。しかも舞台化にあたっては、病床に伏す春團治を、冥土から「白い人力車」が迎えに来るという演出が行なわれている。この最後の場面によって観客の多くは、「白い人力車は伝説」だが「赤い人力車は真実」だと思い込まされたのである。見事な潤色であった。


三枝と三代目と美智子

 2005年11月10日、南御堂での「船場上方噺の会」(席亭・北原祥三)を終えたあと、桂三枝は、三代目春團治らとともに、打ち上げの宴席にいた。上方落語協会会長を務める三枝は、協会の悲願であった上方落語の定席「天満天神繁昌亭」の建設に奔走していた。大阪天満宮の寺井種伯宮司の協力を得て、ようやく12月1日に着工する目途を立てたばかりだったが、三枝は早くも次の一手を思案していた。繁昌亭の杮落としの趣向についてである。

 三枝は、開宴まもなく、三代目の向かい席に移動して、次のように言った。
 「師匠、来年の柿落しには、赤い人力車に乗ってください。私が天神橋筋商店街を牽かせていただきます。」
 三代目は、真剣な眼差しで三枝を見据え、一瞬の間(ま)をおいて、
 「実は、わしもいっぺん乗ってみたかったんや。しかし、君に牽けるかな。」
と笑顔で応じた。
 二人のやりとりを聞いていた「船場上方噺の会」世話人の一人、喜多條清光は、別テーブルにいた鈴木美智子を呼び寄せて、この会話を紹介した。それだけで十分だった。ワッハ上方のナレーションを務めた鈴木には、「赤い人力車」への思い入れがあった。即座に、
 「解りました。私でよろしければ、赤い人力車を寄付させてください。」
と申し出たのだ。三枝の創意と、三代目の一瞬の間と、そして鈴木の即座の応諾。このような粋(すい)のやりとりの前には、伝説の真偽を詮索することは意味をなさない。
 「繁昌亭」柿落としの日、「赤い人力車」の伝説は真実となる。

2006年9月15日

「大阪くらしの今昔館」前から出発しようとする赤い人力車。





後注
(1)冒頭に記した大阪府立上方演芸資料館(通称:ワッハ上方)の「赤い人力車」は、同館の縮小に伴ない、今はもうない。
(2)文中の「船場上方噺の会」は上方一の豪華な落語会として知られる。昨年9月27日に席亭の北原祥三氏が逝去されたが、今年11月13日には氏の「追福公演」と銘打って第14回「上方船場噺の会」が開催される(於:南御堂)。

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高島幸次たかしま・こうじ

1949年大阪生まれ。大阪大学招聘教授、大阪天満宮文化研究所研究員などを兼務。日本近世史を専攻し、地方誌史への執筆や、各種セミナーの企画なども多く行う。NPO法人「上方落語支援の会」理事や天満天神繁昌亭大賞選考委員として落語にも関わっている。

著書に『奇想天外だから史実ー天神伝承を読み解くー』(大阪大学出版会)、『大阪の神さん仏さん』(釈徹宗との共著、140B)などがある。

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