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拾漆 千と千尋とイモリの黒焼き

2016.02.13更新

湯屋と風呂屋

 2001年に公開された宮崎駿の『千と千尋の神隠し』は、いまも国内総合興行収入の第一位に輝いている。異界に迷い込んだ少女「千尋」が、名を「千」と変えて「油屋」で働いた後に、こちらの世界に戻るまでを描くファンタジー・アニメだ。

 「油屋(あぶらや)」の屋号は、その音読みが「湯屋(ゆや)」に響いている。油屋では、疲れを癒しに来る八百万の神々を薬湯や豪華な料理でもてなすのだから、素直な子どもたちは「温泉旅館」だと理解するに違いない。しかし、私のようなすれた大人には、それが「遊女屋」であることは見え見えだ。油屋で働くリンが、釜焚きの釜爺から「イモリの黒焼き」を貰うと、他の従業員たちに横取りされないように食べてしまうシーンや、油屋の衝立に揮毫された「回春」の文字などにそれは表れている。
 「イモリの黒焼き」は、一名「なれそめ薬」ともいい、精力増進剤や惚れ薬として周知の漢方薬だ。本コラムは、これをモチーフにした落語『イモリの黒焼き』をテーマにしようとしているが、いましばらく「湯屋」についてお付き合いください。

 江戸時代には「湯屋」は、「風呂屋」とは似て非なる業種だった。例えば、江戸時代の大坂・曽根崎新地には「風呂屋株四株」とは別に「湯屋株一株」が認可されていた。風呂屋株は遊女屋の、湯屋株はいわゆる銭湯の営業権のこと、風呂屋には「湯女(ゆな)」や「垢掻(あかかき)」と呼ばれる女性が遊女を兼ねていた。
 だから、かつてソープランドの通称だった「トルコ風呂」は、誠にトルコ共和国に無礼千万な名称ではあったが、「湯屋」と言わず「風呂」といったのは、この歴史的語義に叶う名称だったのだ。それなら、千の職場は、〈油屋→湯屋→銭湯〉なのかというと、そうではないからヤヤコシイ。「油屋」は明らかに風呂屋すなわち遊女屋なのだ。

 そして、この風呂屋と湯屋の使い分けは、大阪人にはさらにヤヤコシイ。なぜなら、私が子どもの頃は、東京でいうところの銭湯を、大阪では風呂屋と言っていたから。小学生の私は毎日のように風呂屋に通っていたが、遊女はいなかった(と思う)。
その意味では、昭和の名曲『神田川』の歌詞に「二人で行った 横丁の風呂屋」とあるのは興味深い。作詞の喜多条忠さんが早大生だった時代の同棲生活を書いたのだから「銭湯」とすべきなのに、喜多条さんは大阪・天満で育ったため「風呂屋」になっているのだ。


イモリの黒焼き

 さて、落語『イモリの黒焼き』について、まずは粗筋から。
 米屋の娘に惚れた喜ぃさんは、甚兵衛さんに聞いた惚れ薬「イモリの黒焼き」を高津の黒焼屋で買ってくる。米屋の前で娘が出てくるのを待ち伏せ、黒焼きを振りかけようとしたのだが、思わぬ風が吹いて娘ではなく店先の米俵にかかってしまう。喜ぃさんは米俵に惚れられ追い掛けられるというナンセンスな噺だ。

 この「高津の黒焼屋」とは、高津宮(高津神社、大阪市中央区)の西側階段の下にあったが、落語だけではなく小説のモチーフにもなっている。東郷隆の小説「イモリの黒焼き」(『最後の幻術』静山社文庫、2012年)には以下のようにある。

 西国は大坂。高津の宮と申しますところに「黒焼き屋」がございまして、諸国土産案内にも載る程の評判。ある人が、買い求めた黒焼きの袋を机の上に出しておきますと、猫がやって来てじゃれついた。爪でひっかいて袋の中味が外にこぼれます。くんくんと嗅ぎ、途端におかしくなる。そこへ鼠が顔を出します。猫はごろごろっと喉を鳴らしたと見るや鼠に走り寄り、ぐいと抱きついて鼠の穴に二匹して潜り込む。そのまま枕を交して夫婦になっちゃった、という話までございます。

 猫と鼠が枕を交わした真偽についても知らないが、この東京を舞台にした小説でも、高津の黒焼屋が出てくるほどに有名だったのだ。そのため、落語の世界では『いもりの黒焼き』以外にも、『天神山』『親子茶屋』などにも登場する。

 『天神山』では、安井神社(安居天満宮)の裏手で捕まえたキツネを「高津の黒焼屋」に売りに行くという。黒焼き屋は、イモリだけではなく様々な小動物の黒焼きを商品にしていたのだ。例えば、明治14年(1881)4月10日付『大阪朝日新聞』には、次のような記事がある。

 南区役所にて取調べられし十三年度下半季分の「輸入品調査表」に依れば、猿廿四疋・獺(かわうそ)六十五頭・狐四十頭・栗鼠十頭・烏千三十羽・鳶千四百十五羽・蟇(かへる)二千五百頭・鶏(あひる)十七羽なり。こは何れも和泉・大和・山城あたりより当地へ持ち来たり、かの高津黒焼商へ販売せしものなりと。

 ここにイモリが挙がっていないのは、わざわざ他府県から仕入れなくても、身近で入手できたからだろう。それにしても「高津黒焼商」だけでこれだけの品数量を扱っていたことに驚かされる。
落語『親子茶屋』では、親旦那に説教された若旦那が「お父っつぁんを高津の黒焼屋へ持って行っても断られる」と悪態を吐くが、さすがの黒焼屋でも人間の黒焼きは売っていなかった(と思う)。


明治・大正の黒焼屋

 近代になっても黒焼きの人気は衰えなかった。明治42年(1909)9月18日の『東京朝日新聞』には「黒焼の今昔 今でも売れるから妙だ」という記事が載っている。その冒頭に次のようにある。

 黒焼は蠑螈(いもり)に止めをさし、昔は随分に流行ったものだが、今はそれよりも効能のある薬が沢山できて買い手も減り、拵える者も少なくなった。しかし東京には未だこの黒焼を商売としている家が東両国に豊田屋と湊屋の二軒、下谷区御成街道に一軒、その他合わせて都合五軒ある。

 このあとに、豊田屋の主人による黒焼の原料についての証言が続くのだが、なかなか興味深い。「原料の種類は鳥虫魚貝類を合せたら二百三四十種」もあり、「動物はすべて子を取る」「これを獲るものは山奥へ這入り親が餌をあさりに行った留守に拾って来る」という。なるほど、子どもの方が効能を期待できるのだろう。ただし、イモリについては交尾中のが「ホンマ」なのだから、子どもではなかったはずだ。豊田屋はさらに近代化の波が黒焼の原料にも影響を与えたと話す。

 鳥や虫もまた田舎へ注文するので、これは子供が捕ってきますが、一番よく売れる赤蜻蛉(とんぼ)・鳶(とび)・蝙蝠(こうもり)の三種は、近年だんだん減って容易に集まらぬ様になりました。これは、田舎の萱葺屋根が瓦葺となって蝙蝠の棲家(すみか)がなくなり、また赤蜻蛉は工場が増したために川の虫が少なくなったからだと思います。

 黒焼屋ならではの文明批評だ。さらに豊田屋は「昔は蠑螈(いもり)の黒焼といえば妙な風に解釈したものですが、それは間違いで、ホントは子供が乳母に馴染まぬ時に用いるのです」と主張する。しかし、当時の新聞広告をみれば、「妙な風に解釈」されてもやむを得ないだろう。
 明治25年(1892)2月3日『東京朝日新聞』に載った「いもりの黒焼」の広告のキャッチは「男女諸君に告ぐ」であって、「乳母に告ぐ」ではない。しかも、広告中には「本品は外見の憂いなきよう厳緘にて郵送」とある。
 聞いた話だが、現在でもAVビデオなどを通販で注文すると「厳封」で送られてくるらしい。聞いた話だからよく知らないが、厳重な梱包という意味ではなく「親展」扱いらしい。聞いた話だから本当か否かは判らないけれど、全く別の品名が書いてあることもあるらしい。それはともかく、乳母が使うのなら、厳緘(=厳封)の必要はなかったはずだ。
 同年7月15日の同紙「ゐもりの黒焼」の広告には「効能ハ風紀を害する故、茲(ここ)に記さず。詳細(くわしく)は効能書にあり」と説明しているが、効能書を読まずともその用途は周知だったのだろう。

 興味深いのは、その商品は「一つがい原(もと)の形のまゝ箱入」だということだ。オスとメスの番(つがい)がセット販売だというが、たしかに落語『イモリの黒焼き』でも、喜ぃさんはオスの黒焼きを自身に振りかけ、米屋の娘にはメスの黒焼きをかけようとしていた。しかも、そのセットは「ホンマのイモリの黒焼き」だった。なにが「ホンマ」かというと、別々に捕ってきたオス・メスをセットにしたのではダメで、交尾中のイモリでなければ「ホンマ」じゃないという。イモリは淫情が強いから、必至に求め合っているところを無理矢理に引き離して、別々の壺にいれて蒸し焼きにしたのが「ホンマのイモリの黒焼き」なのだ。だから、米俵が人間に惚れて追い掛けるほどに、その効果は絶大だったのだ。いかにも落語らしい蘊蓄だが、イモリの淫情が強いか否かは定かではない。


《締めの謎掛け》
「イモリの黒焼き」とかけて、「王手飛車取り」と解く。
その心は・・・、どちらも娼妓(将棋)の精力(勢力)を増進します。チャン、チャン。

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高島幸次たかしま・こうじ

1949年大阪生まれ。大阪大学招聘教授、大阪天満宮文化研究所研究員などを兼務。日本近世史を専攻し、地方誌史への執筆や、各種セミナーの企画なども多く行う。NPO法人「上方落語支援の会」理事や天満天神繁昌亭大賞選考委員として落語にも関わっている。

著書に『奇想天外だから史実ー天神伝承を読み解くー』(大阪大学出版会)、『大阪の神さん仏さん』(釈徹宗との共著、140B)などがある。

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