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拾玖 落語の死生観(下)

2016.05.27更新

落語『粗忽長屋』の粗忽ぶり

 落語には様々な粗忽者が登場して客席の笑いを誘う。『粗忽長屋』は、自分が死んだことにさえ気付かない男の噺だ。その粗筋は以下の通り。

 松ちゃんが、人だかりのなかに友人の芳公が行き倒れで死んでいるのをみつける。松ちゃんは慌てて芳公の住む長屋に芳公を呼びに行く。現場に連れて来られた芳公は、その遺体を抱きあげて「抱き上げているワシはだれや?」というのがオチだ。

 芳公を呼びにいく松ちゃんも、自分の遺体を確認に来る芳公も粗忽者だ。しかし、考えてみれば、私たちは自身の死を自身で確認することはできない。末期に「死ぬかもしれない」と予感はしても、「いま死んだ」と自覚することはできないはずだ。そういう意味では、私たちは松ちゃんや芳公を笑うことはできない・・・、いや落語なんだから、笑えばいい(どっちやねん!)

 見方によれば、この二人は粗忽どころか「死」の本質をとらえているのかもしれない。世間には「体外離脱」して、中空から自身の遺体や、嘆き悲しむ遺族を見下ろしたという体験談を語る人がいるが、その真偽については立花隆の『臨死体験』(1994年)に譲り、いまは自身の死は自身では確認できないという前提で話を進める。寺山修司の『地獄篇』に、次のような会話がある。

秤を売る男「人間の死なんてものはありません。あるのは他人の死ばかりです。」
哲学者「自分の死は? おまえ自身の死の問題はどう答えるつもりなのだ?」
秤を売る男「自分の死を量ってくれるのは、いつだって他人ですよ。それどころか、自分の死を知覚するのだって、他人なんです。」


 寺山は『粗忽長屋』から着想を得て、この会話を書いたのかと思いたくなるほど、その思想は通底している。もっとも、寺山に影響を与えたのは『粗忽長屋』ではなく、美術家のマルセル・デュシャン(1887~1968)の墓碑銘「死ぬのはいつも他人ばかり」だったらしい。寺山やデュシャンが『粗忽長屋』を聞いたら、膝を打って納得したに違いない。


落語『胴切り』の辻切り

 粗忽にもいろいろあって、落語『胴切り(胴斬り)』では、身体を真っ二つに斬られているのに、上半身と下半身が別々に生きて行く「竹」と呼ばれる男の噺だ。まずは、その粗筋から。

 竹は夜道で辻切りに遭い、胴を真っ二つに斬られる。下半身をその場に残したまま、上半身は近くの用水桶の上にチョコンと乗る。たまたま通りかかった友だちの又が、竹の上半身を背負い、下半身の褌を曳いて家まで連れて帰る。ここまでが噺の前半。

 落語『宗悦殺し』では、辻切りにあった皆川宗悦は即死するが、『胴切り』では、胴体が真っ二つになっても、上下ともに生きている。何ともシュールな噺だ。
 『粗忽長屋』は、先の寺山のセリフ「自分の死を量ってくれるのは、いつだって他人ですよ。」を地で行く噺だが、『胴切り』は、それに続くセリフ「それどころか、自分の死を知覚するのだって、他人なんです。」をパロディ化しているようにみえる。

 ここで、「辻切り」に寄り道する。『広辞苑』を引くと、「武士が刀剣の切れ味をためし、または武術を練るため、街頭で往来の人を斬ること」だと説明されている。至極妥当な語釈なのだが、その背景には「アジール」が横たわっていることを補足しておきたい。
 アジールとは、世俗のルールが適用されない無縁の地をいう。世界各地に散在したが、わが国においては、寺社や河原や街道などがアジールだった。たとえば、御伽草子「ものぐさ太郎」では、太郎が清水寺で「辻取り」を行うシーンが描かれている。「辻取り」とは、「供を同行せずに、輿にも乗らずに、女性が一人で歩いていたら連れ去って妻妾にしても構わない」という習慣のことで、街道のアジールを踏まえている。「女捕り」ともいうが、「辻取り」のほうが本質を突いている。アジールである街道が交差する「辻」は、アジール性がより強くなるから、たとえ一本道での行為であっても「辻取り」や「辻切り」といってアジールの場を強調したのだ。

 落語『胴切り』に戻る。噺の後半では、辻切りの翌日に又が竹を訪ね、竹の上半身に風呂屋の番台勤めを、下半身に麩屋で麩を踏む仕事を紹介する。上下半身が別々に働き始めて数日後、又は竹の兄から竹の弟に伝言を頼まれる(いつのまにか、上半身が兄、下半身が弟になっている)。兄は弟に「近ごろ目がかすむので、三里に灸をすえてほしい」というのだ。
 風呂場で働いているために、湯気のせいで目を痛めたらしく、足の三里(膝小僧の少し下あたり)に灸をすえてほしいのだ。又が下半身の弟にそのことを伝えに行くと、今度は弟から上半身の兄への伝言を頼まれる。その伝言は「あまり茶ばかり飲まないでくれ、小便が近くてこまる」というもの、これがオチだ。
 兄と弟はセパレートしているのに、兄の飲んだ茶のせいで、なぜ弟が尿意を催すのだ、などと考えては落語は楽しめない。落語とはそういうものだ。


落語『地獄八景』と『極楽八景』

 『粗忽長屋』や『胴切り』が描くシュールな「死」の延長線上に、死後の世界を描いた落語『地獄八景』(『地獄八景亡者戯』ともいう)がある。江戸後期の噺を桂米朝が再構築したもので、全部演じると優に一時間を超える大作だ。いうまでもなく、舞台は、先に紹介した「六道」のうちの「地獄界」。
 かつては、各地の寺院で「地獄絵」の絵解きが行われたから、現在でも「地獄絵」の掛け幅を所蔵している寺院は少なくない。そこには、地獄に落ちた亡者(死者)が獄卒(地獄の鬼)の呵責にあっている場面などが描かれている。お盆などには本堂にこれを掛けて、僧侶が檀家にその恐ろしさを絵解きしたのだ。地獄に落ちたくなければ善行を積み改心するように説くのだが、子どもたちは本気で怖がったに違いない。

 小文の冒頭で、落語は仏教のお説教の流れを組むといったが、その意味では『地獄八景』も「地獄絵」の流れを組んでいるといえなくもない。ただし、中味は見事に換骨奪胎されて「明るい地獄」になっている。「三途の川」や「賽ノ河原」「六道の辻」なども出てくるのだが、「地獄絵」のおどろおどろしたところは全くない。
 たとえば、「六道の辻」では、芝居小屋や寄席小屋が建ち並び、有名な故人が出演している。『仮名手本忠臣蔵』で塩治判官の役を演じるのが本物の浅野内匠頭だというからたまらない。歴代の市川団十郎の共演もある。夢の舞台だ。

 こんなに明るい地獄なら、まるで極楽じゃないかと考えて、私も新作落語『極楽八景』を書いたことがある。ほんのさわりだけ紹介すると、主人公が極楽に行くと、ちょうど「後楽園球場」ならぬ「今楽園球場」で「仏さんブッダーズ」と「神さんシントーズ」が野球の試合をしている。
 ブッダーズのピッチャーは十一面千手観音。千手のうちどの腕で投げてくるのか予想がつかないのでバッターは困惑する。もしかりに出塁できても、ピッチャーの頭の周りにも十面の顔があるから、かなりの確率で牽制アウトにされる。十一面千手観音は、これまでに一度も盗塁を許したことがないのだ。一方、シント-ズの打者は少彦名命。一寸法師の先蹤だけあって極めて小さい。そのためストライクゾーンが異常に狭く、かなりの確率でフォアボールを選べる。しかし、ボールを打ってしまうとどんなに鋭い打球でも必ずアウトになる。なぜなら、少彦名命の歩幅では全力で走っても一塁まで数分かかるからだ。

 この続きは繁昌亭で聞いていただくことにして、話を締めくくろう。
 「四苦八苦」のうちでも最も笑いにくいはずの「死」についてさえ、落語は様々な切り口で、ときには哲学的なアプローチで楽しませてくれる。馬鹿馬鹿しい作り話でしかないようにみえても、落語を侮ってはいけない。しかし、それでも落語は面白ければいいのだ。笑福亭福笑師匠の手拭に次のように書いてあった。
「たかが落語、されど落語、せやけどやっぱり、たかが落語」


《締めの謎掛け》 「十一面千手観音」とかけて、「赤字会社の経営会議」と解く。その心は・・・、「どちらも、球場(窮状)の競技中(協議中)です」。チャン、チャン。

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高島幸次たかしま・こうじ

1949年大阪生まれ。大阪大学招聘教授、大阪天満宮文化研究所研究員などを兼務。日本近世史を専攻し、地方誌史への執筆や、各種セミナーの企画なども多く行う。NPO法人「上方落語支援の会」理事や天満天神繁昌亭大賞選考委員として落語にも関わっている。

著書に『奇想天外だから史実ー天神伝承を読み解くー』(大阪大学出版会)、『大阪の神さん仏さん』(釈徹宗との共著、140B)などがある。

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