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弐拾 落語の義経と弁慶

2016.09.13更新

義経・秀吉・内蔵助

 「困ったら 義経・秀吉 内蔵助」という川柳をご存知だろうか。某TV局が大河ドラマの企画に窮したときには、このうちの誰かを主人公にしておけば視聴率が稼げるというのだ。たしかに、半世紀を超える大河ドラマの歴史のなかで、彼らは繰り返し登場している。国民的な人気者といっていいだろう。

 そこで、落語の世界における彼らの採り上げられ方をみると、それぞれに特徴的だ。
 まず、豊臣秀吉は『太閤の猿』や『太閤と曽呂利』などに登場する。『太閤の猿』は、秀吉が「猿面冠者」と呼ばれたエピソードをモチーフにする。秀吉が自身にそっくりな猿を利用して諸大名たちをからかうのだが、その対象は、加藤清正・福島正則・片桐且元・伊達政宗という錚々たる顔ぶれだ。

『太閤と曽呂利』では、「奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の声聞くときぞ 秋は悲しき」の本歌取りをするつもりで「鳴く蛍」と詠んでしまう、蛍は鳴かないのに。しかし、曽呂利新左衛門のアドバイスでうまく切り抜ける。新左衛門は秀吉の御伽衆と伝えられ、『太閤の猿』にも登場している。このように、落語の世界の秀吉は、無邪気無学なトリックスターのような役割だ。

 これに対して、大石内蔵助は歴史上の人物としてではなく、「仮名手本忠臣蔵」の大星由良之助として『芝居風呂』『質屋芝居』『淀五郎』『蔵丁稚』『七段目』などに登場する。それにしても落語は忠臣蔵が大好きだ。他にも『田舎芝居』『五段目』『中村仲蔵』『片袖』『蛸芝居』『九段目』『天野屋利兵衛』など、忠臣蔵ネタを挙げ出せばキリがない。落語の世界の内蔵助は、由良之助でしかない。
 これに対して、源義経は、実在の人物というよりは、その名前だけが象徴的に記号のように語られる傾向がある。しかも、武蔵坊弁慶とのバーター出演が多い。以下、落語にみえる義経と弁慶についてみていこう。


落語『青菜』の義経と弁慶

 落語『青菜』は、ご隠居が出入りの植木屋を酒の相手に誘うところから始まる。植木屋をもてなすため、隠居は奥方に青菜を出すように指示する。しかし、青菜がないのに気付いた奥方は、「鞍馬から牛若丸が出でまして、名も九郎判官」と隠居に告げる。「菜も食ろう(名も九郎)」たので、青菜は出せないという隠し言葉だ。これに対して隠居は「では義経、義経」と応える。「良しつね(義経)」をかけている。
 そのやりとりに感じ入った植木屋は、帰宅後に妻のお咲きに言い含め、友人の大工を招いて隠居夫妻の会話を真似ようとする。しかし、そこは落語、お咲きは「鞍馬から牛若丸が出でまして、名も九郎判官義経」と言ってしまう。「義経」と返せなくなった植木屋は、しかたなく「弁慶」と応えるのがオチだ。ここでは、義経は歴史上の人物と言うよりは「良し」の語呂合わせでしかない。

 横道にそれるが、実は、わが家でも来客を迎えたときは、この隠居夫妻の会話に習うことがある。先日も来客を迎え、私は妻に「初音を早う持ってこんかい」といった。「初音」とは加賀の銘酒でわが家の常備酒だ。狐の皮で張られた鼓「初音」に響かせて、狐の鳴き声「吼噦=こんかい」にかけたのだ。すると妻は「静かに。お客さんがあると、すぐに内弁慶になるんだから、なさけない。」と応えた。「初音」から「静」と「内弁慶」を引いたうえで、「なさけ(酒)ない」というのだ。これでは私がオチを付ける必要もない。しかたなく「いつもこんな調子で苦労(九郎)しています」とポツリ。
 えーっと、もし、こんな会話でよろしければ、いつでもわが家へお越しください。またネタを仕込んどきますんで。


落語『廻り猫』の牛若丸と弁慶

 さて、義経と弁慶に戻る。落語『廻り猫』でも、義経(牛若丸)と弁慶の名前は響き合っている。
 去る船場の大家で、貰い猫に強そうな名前を付けようということになった。まず「弁慶」が候補に挙がるが、「五条の橋で弁慶に勝った牛若丸のほうが強い」と異論が出る。すると「牛若丸に剣術を教えた僧正坊のほうが強い」「僧正坊は杉の木がなかったら生きられないから杉のほうが強い」「どんな大きな杉の木でも強風でボキッと折られるから風のほうが強い」「どんな強風でも土壁には遮られる」「どんな土壁でも鼠には食い破られる」「鼠より猫のほうが強い」と、結局は貰い猫の名は「ネコ」になるというのがオチ。

 後段の「杉→風→土壁→鼠→猫」はさておいて、前段の「弁慶→牛若丸→僧正坊」をみても、義経(牛若丸)と弁慶はコンビ名のようなものだ。興味深いのは、牛若丸から僧正坊が連想されていること。僧正坊は、鞍馬山の僧正ヶ谷で牛若丸に剣術を教えたと伝えられる天狗で、落語『天狗裁き』にも登場する。
 江戸時代にはかなり知られた人物、いや天狗だった。しかし、いまの若い人たちは「弁慶→牛若丸」はまだしも、「牛若丸→僧正坊」の連想は難しいかもしれない。私などは「牛若丸→僧正坊」とくれば、そこから「鞍馬天狗→嵐勘十郎→角兵衛獅子→松島トモ子」へと連なり、さらには美空ひばりの「♪生まれて父の顔知らず ♪恋しい母の名も知らぬ ♪わたしゃ旅路の角兵衛獅子」と口ずさんでしまうのだけれど・・・。


史実としての弁慶

『廻り猫』では、弁慶が強そうな名前の筆頭にあがったが、はたして弁慶は本当に強かったのか。『広辞苑』で「弁慶」を引けば「①武蔵坊弁慶」の語釈とともに「②強い者のたとえ」とある。「怪力無双の大男」としての弁慶像は周知のようだ。「内弁慶」「外弁慶」も、強い弁慶像を踏まえてこその謂いだ。
 ところが、弁慶についての信頼できる史料は、鎌倉幕府の史書『吾妻鏡』の次の2ヶ所の記事だけしかない。

(ア)文治元年(1185)11月3日、頼朝の譴責を受けた義経が、叔父の行家らとともに西国(九州)に逃れようとしたとき、従者は約200名だったという記事。その主な従者として、平時実・藤原良成・源有綱・堀景光・佐藤忠信・伊勢能盛・片岡弘経、そして弁慶法師の名がみえる。200名の従者のうちの主だった8名のうちに弁慶は挙げられてはいるが、順列は8番目だ。義経の一番の家来とはいい難い。

(イ)その3日後に、大物(兵庫県尼崎市)から乗船する有名なシーンだ。同年11月6日、西下途中の義経一行が大物浜から乗船するが、疾風によって難破し、義経に付き随うのは、源有綱・堀景光と武蔵房弁慶・妾女〈字静〉の4名だけになってしまったという記事。ここでも筆頭の従者ではない。いうまでもなく能『船弁慶』は、この大物の浦が舞台だ。

 それにしても、あれだけ様々な逸話を持つ弁慶について、その実在を示す史料はこの2ヶ所だけだということに驚く。この史料から明らかにできるのは、弁慶が義経の従者であったこと、法師=僧侶であったことくらいだ。
 これ以外の弁慶のイメージはすべて作り話といっていい。「武蔵坊」を比叡山西塔の堂坊の一つだと解して、比叡山の僧だったいうのも根拠がない。ましてや、熊野別当の湛増の子であるとか、怪力無双だとか、背丈が大きかったというのも作り話。有名な五条大橋における牛若丸との出会いも、奥州・衣川での「弁慶の立往生」も後世のフィクションでしかない。
 鎌倉時代の軍記物語『平家物語』でさえも、弁慶を義経の郎党として描くだけで、五条大橋の出会いなどは記していない。私たちがイメージする様々な逸話に彩られた弁慶像は、室町時代の成立とされる物語『義経記』や『弁慶物語』の影響でしかないのだ。


落語『船弁慶』の弁慶

 弁慶は義経とコンビだといったが、弁慶だけが単独で登場することもある。
 先に挙げた弁慶の確実な史料(イ)の大物浦のエピソードをモチーフにしたのが能『船弁慶』だ。落語『船弁慶』は、この能の一場面を採り込むが、義経を差し置いて、弁慶だけが登場する。

 その粗筋は、喜六・清八は女房のお松に内緒で難波橋上流での船遊びに興じる。その後、お松も友だちと夕涼みに出掛け、偶然に難波橋上から船上に遊ぶ夫を見つける。怒ったお松は小舟で漕ぎ寄せて夫をなじるが、喜六は清八の手前もあり、お松を川へ突き落とす。しかし、幸いにもそこは浅瀬で、立ち上がれば膝下くらい(この浅瀬については本コラム「なにわなんでも難波橋」の項で検討済み)。
 ここからが能『船弁慶』のパロディ。川中に立ち上がったお松は、壇ノ浦の戦いで入水した平知盛の霊を演じ、喜六は弁慶に扮し祈祷で知盛の怨霊を鎮めようとする。橋上からこの俄「船弁慶」を見物する野次馬たちから「弁慶!」の掛け声が飛ぶと、喜六は、「弁慶だと? 今日は3円の割り前だ!」と言い返すのがオチ。

 この場合の「弁慶」は、いつも御馳走になっている御供(従者)を意味する俗語にかけている。この日の喜六は割り前(割り勘)で乗船しているから、オチの返答になる。ちなみに、桂枝雀師匠のオチは「弁慶やて? 今日の割り前は取らんといてや」だった。
 それにしても、長屋住まいの喜六やお松たちが、能の詞章までもそらんじていたことに驚く。古典落語には、能・狂言や浄瑠璃・歌舞伎にも親しんでいた大坂町人が度々登場するが、現代とは隔世の感がある。


実像と伝説

 そろそろ稿を終えたい。
 義経・秀吉・内蔵助に共通するのは、ハッピーエンドの人生ではないことだ。義経は兄・頼朝の追討をうけて奥州・衣川で討死。秀吉は朝鮮出兵で晩節を汚し、「返す返す秀頼のこと頼み申し候」と遺言した17年後に秀頼は自刃。内蔵助は主君の仇打ちを果たしたが切腹。
 功成り名遂げたはずの源頼朝よりも義経が、徳川家康より秀吉が人気者なのはなぜなのか。その理由は、例えば天真爛漫な100点の美人よりも、翳りを持った80点の美人の方が魅力的であることに通じ・・・、と説き始めると延々と持論を展開したくなるので止めます。

 落語であろうが大河ドラマであろうが、その登場人物の生涯は明確である必要はない。むしろ、実像が不明なほうが落語の世界にアレンジしやすい。秀吉の場合、歴史学的には実像が明らかにされているにもかかわらず、世間的なイメージは巷間に流布した「太閤伝説」に基づいている。義経も頼朝の挙兵に呼応して以後の実像はある程度みえるのだが、にもかかわらずモンゴルに渡ってジンギスカンになったというような荒唐無稽な伝説が流される。内蔵助に至っては、その全てが『仮名手本忠臣蔵』に負んぶに抱っこといっていい。
 だからこそ、落語の世界では、全く実像がみえない弁慶のほうが、義経・秀吉・内蔵助よりも活躍しやすいのかも知れない。


《締めの謎掛け》
「義経=ジンギスカン説」とかけて、「壇ノ浦の戦い」と解く。
その心は・・・、「どちらも、発想(八艘)が飛んでいます」チャン、チャン。

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高島幸次(たかしま・こうじ)

1949年大阪生まれ。大阪大学招聘教授、大阪天満宮文化研究所研究員などを兼務。日本近世史を専攻し、地方誌史への執筆や、各種セミナーの企画なども多く行う。NPO法人「上方落語支援の会」理事や天満天神繁昌亭大賞選考委員として落語にも関わっている。

著書に『奇想天外だから史実ー天神伝承を読み解くー』(大阪大学出版会)、『大阪の神さん仏さん』(釈徹宗との共著、140B)などがある。

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