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弐拾参 醜きむくろの石川五右衛門

2017.02.09更新

 歴史学徒の端くれとして、落語のなかに歴史上の人物名が出るとビビッと反応してしまう。もちろん、落語に史料的な裏付けを期待するほど野暮ではないが、無意識に時代考証をしてしまう職業病のようなものだ。

 本コラム「弐拾 落語の義経と弁慶」でも、武蔵坊弁慶について「義経の従者であったこと」以外は全て後世の創作でしかないと指摘したが、同様に決定的な史料不足にもかかわらず、人口に膾炙したのが石川五右衛門だ。弁慶と五右衛門は、根も葉もないエピソードの豊かさで双璧をなしている。

 しかし、現在では五右衛門の知名度は高くはないようだ。ためしに学生に訊いてみると「石川五エ門の先祖」と答えた。五右衛門の13代の末裔「五エ門」が、アニメ『ルパン三世』に登場するのだという。別の学生は、パスタ店の名だと教えてくれた。調べて見ると「洋麺屋五右衛門」というチェーン店のようだ。大釜でパスタを茹でることによる連想らしい。このように現代では、その名だけが独り歩きしている感があるが、落語の世界では、古典的な石川五右衛門像が生きている。


落語『骨つり』と処刑史料

 五右衛門が登場する落語は十指に余るが、落語『骨つり』(江戸では『野ざらし』)は、虚実とりまぜた五右衛門像が語られる。喜六が大川の中州でみつけた骸骨を供養して帰ると、五右衛門の幽霊が訪れ、「開門、開門」と叫んで家に入ってくる。その姿は以下の通り。

 ガラガラガラと、戸を開けて入ってきましたのは、大百(だいびゃく)という鬘がありますな。大百日鬘(おおひゃくにちかずら)、ばさーっと髪の毛が前へ生えたある・・・。どてらみたいな分の厚い着物に、金襴の縫い取りがしてある。下には鎖帷子、横綱が締めるような綱の帯をこう締めて、大段平を横たえて、のっしのっしとそれへ入ってきた。


 江戸時代の観客たちは、ここで南禅寺山門に立つ五右衛門を思い浮かべたに違いない。歌舞伎『楼門五三桐(さんもんごさんのきり)』の「南禅寺山門の場」はあまりにも有名なシーンだから、ほぼ全員が五右衛門の姿を共有できたのだ。
 なお「山門」の表記は、禅宗では「三解脱門」の略称「三門」が正式名だがそれはさておき、同寺の三門は文安4(1447)年に焼失後、寛永5(1628)年に再建されるのだから五右衛門の時代にはなかったのだけれどそれもさておき、歌舞伎では、山門の五右衛門は煙管をふかして「絶景かな、絶景かな」の名セリフをまわすが、落語では五右衛門は次の台詞を独白する。

 思い起こせば、おおそれよ。我京都の三条河原にて処刑され、首足所を変えたり。五体はばらばらに切りほどかれ、流れ流れて大川の、中州に醜きむくろを晒す。やんぬるかなと嘆く折から、あらありがたの今日のご回向。せめて御礼に参上なし、閨中のお伽なとつかまつらん。

 五右衛門の処刑は、戦国・江戸初期に長崎に滞在したスペインの貿易商アビラ・ヒロン(?~1619)の見聞録『日本王国記』が記録している。

 都に一団の盗賊が集まり、これが目にあまる害を与えた。(中略)その中の幾人かは捕えられ、拷問にかけられて、これらが十五人の頭目だということを白状したが、頭目一人ごとに三十人から四十人の一団を率いているので、彼らはいわば一つの陣営だった。十五人の頭目は生きたまま、油で煮られ、彼らの妻子、父母、兄弟、身内は五等身まで磔に処せられ、盗賊らにも、子供も大人も一族全部ともろとも同じ刑に処せられた。
                     (『大航海時代叢書 日本王国記』)


 この人数表記が正しければ優に千人を超える処刑だったことになり信じがたいのだが、イエズス会士ペドロ・モレホン(1563~1639)は、同書の誤りを指摘する注記を随所に施している。この引用箇所についても、次の注記がある。

 これは九四年(文禄三年)の夏である。油で煮られたのは、ほかでもなく、Ixicava goyemonとその家族九人か十人であった。彼らは兵士のようななりをしていて十人か二十人の者が磔になった。

 処刑人数の下方訂正もさることながら、「Ixicava goyemon」の注記は、石川五右衛門の実在と処刑を証明する重要な史料だ。

 落語の独白にある「首足所を変えたり」は、正しくは「首足処を異にす」で、斬首刑や腰斬刑をいう。史料的には五右衛門は「油で煮られた」はずだが、落語では、五右衛門の五体はバラバラにされ大川の中州に流れ着き、その醜い骸(むくろ)を晒して「やんぬるかな(どうしようもない)」と嘆いていたところを、喜六が回向する。五右衛門はその御礼に「閨中のお伽」を務めたい、つまり寝所に侍りたいというのだ。喜六がその名を訊ねると、幽霊は石川五右衛門だと答える。喜六が「ああ、それで釜割りに来たんかい」と応えるのがオチ。

 五右衛門の「男色」はいうまでもなく伝説でしかない。「釜ゆで」から「オカマ」への連想だろうか。なぜ男性同性愛者を「オカマ」というのか、その説明は本コラムの務めではない。


落語『強情灸』と『眼鏡屋盗人』

 五右衛門が釜ゆでにされる場面は、落語『強情灸』でも熱い灸を我慢するシーンで語られる。

 むかし石川五右衛門という盗賊は京都の三条の河原で釜茹での刑に遭うたちゅうねん。釜茹での刑、熱いねんぞ。こお釜に油を張って、その中へタプンと入れられて、下からボワァ火焚き付けられんねん。


 これは桂塩鯛の語りだが、「タプン」や「ボワァ」の擬音が実に落語らしくていい。桂米朝の『眼鏡屋盗人』では、この釜茹でについて蘊蓄が披露されている。

 釜ゆでにされて死んだんですな。「五右衛門は生煮えのとき一首詠み」てな川柳があるが、あれはどうも記録によると、三条河原が正しいらしいんですわ。四条やとか七条やとか、いろんな説がありますがね。

 処刑場について「記録によると、三条河原が正しい」とは、落語研究家でもあった米朝らしい物言いだ。たしかに当該期の公家・山科言経(1543~1611)の日記『言経卿記』の文禄3年(1594)8月24日条には、次のように記録されている。

 盗人スリ、十人・子一人等、釜にて煮らる。同類十九人八付(はつけ=磔)にこれを懸け、三条橋南の川原にて成敗なり

 これらの史料によって五右衛門が三条河原で処刑されたことが証されるものの、それ以外のことは全く判っていない。有名な辞世の句「石川や 浜の真砂は 尽くるとも 世に盗人の 種は尽くまじ」も後世の偽作でしかない。
 「生煮えのとき」の川柳は『誹風柳多留』に載っているが、ほかにも「白波の 居風呂桶(すえふろおけ)に名を残し」という句もある。「白波」は「盗賊」の意味で(歌舞伎『白波五人男』も同じ伝)、居風呂桶は、下部に竈(かまど)を据え付けた桶のこと。「五右衛門風呂」にその名を残しているというのだ。私が子供のころには、桶ではなく全体が鉄釜の「五右衛門風呂」が利用されていたけれど、こっちのほうが五右衛門の釜茹でを連想しやすい。


落語『焼き塩』と十二月十二日

 落語『焼き塩』では、五右衛門の命日が十二月十二日だとする面白い伝説が出てくる。

 ほなら、このごろな、あの十二月十二日と書いて、表貼っといたら盗人が入らへん、石川五右衛門が釜ゆでにされた日やさかい、あれ書いといたら泥棒が逃げて帰るいう呪(まじな)いがあんのや。そやさかい、ちょっと十二月十二日と書いて門口貼って。

 五右衛門の釜茹では8月24日であって、12月12日ではない。しかし、私も子どものころには、短冊状の紙に「十二月十二日」と書いて、玄関内側の上部の壁に反対向きに貼った記憶がある。泥棒が屋根伝いに玄関から逆さまに侵入しようとしたとき、そこに大先輩の五右衛門の誕生日が書いてあると気がひるむのだと聞かされていた。この誕生日説も根拠がないのだが、それほどに大盗賊・石川五右衛門は超有名人だったのだ。

 しかし、五右衛門についての知識が薄れつつある現在、繁昌亭のお客さんたちは、五右衛門のイメージを共有できているのだろうかと気になるが、それは余計なこと。なぜなら、落語の楽しみ方は千差万別でいいのだ。それぞれに楽しめたらいいのだ。繁昌亭は歴史を学ぶカルチャーセンターではないのだから。ということは、わたしのような職業病は、落語には百害あって一利なしだ。それは解っているのだけれど・・・。


《締めの謎掛け》
「五右衛門の釜茹で」とかけて、「カップルの夕涼み場所」と解く。
その心は・・・、「どちらも、惨状(三条)の河原でしょう」チャン、チャン。

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高島幸次(たかしま・こうじ)

1949年大阪生まれ。大阪大学招聘教授、大阪天満宮文化研究所研究員などを兼務。日本近世史を専攻し、地方誌史への執筆や、各種セミナーの企画なども多く行う。NPO法人「上方落語支援の会」理事や天満天神繁昌亭大賞選考委員として落語にも関わっている。

著書に『奇想天外だから史実ー天神伝承を読み解くー』(大阪大学出版会)、『大阪の神さん仏さん』(釈徹宗との共著、140B)などがある。

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