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弐拾捌 仏教説話から落語へ

2017.12.06更新

 落語の源流に僧侶の説教があることについては、話芸研究者の関山和夫先生が明らかにされています。
 そして近年は、釈徹宗先生が『落語に花咲く仏教―宗教と芸能は共振する―』(朝日選書、2017年)において、数々の落語ネタについてその土壌となった仏教思想や経典を紹介されています。
 しかし、膨大で深遠な仏教思想のうち、落語ネタに転用されているのは極一部でしかありません。では、仏教経典に説かれた仏教の教えや説話が落語ネタに昇華されるためには、どのような条件が必要だったのでしょうか。以下では、落語『松山鏡』を素材として、それが落語として成立する流路の周辺を探ります。
 と、その前に、細川貂々さんの落語マンガ「お多福来い来い」を御存知でしょうか。『女性セブン』で連載されているのですが、その第11回 (11月9日号)は『松山鏡』がテーマでした。そして釈先生の御紹介により、なんと私・高島も登場しているのです。髪の毛フサフサのイケメンに描かれていることに批判もあるようですが、どこ吹く風と聞き流し、マンガに出演したことを喜んでいます。


「自己鏡映像認知」説話

『松山鏡』は、鏡に映っているのが自己であることを認識する「自己鏡映像認知」をモチーフとした噺です。この認知力については、チンパンジーやイルカなどでも確認できているようです。それなのに『松山鏡』には、自己鏡映像認知に欠けた人々が登場します。まずは、その梗概を。

  越後の松山村の正助は、領主から褒美を頂戴することになった。希望の品を尋ねられ、「亡父に遭わせて欲しい」と答える。領主は思案の末に鏡を与えた。正助が鏡を覗くと「亡父」が映った(正助は亡父の享年に達しており、よく似ていたのだ)。正助は鏡を納屋に置き、毎朝夕に鏡を覗き亡父に挨拶をするようになった。不審に思った女房が納屋の鏡を覗くと「女」がいたため、夫婦喧嘩になる。通りかかった尼さんが仲裁のために鏡を覗くと、「あの女は反省して、尼になっている」と言った。


 まだ、鏡を知らない人々の物語です。領主を除けば、正助も女房も尼も自己鏡映像認知に欠けています。釈先生はこの噺の原話として、古代インドの仏典『百喩経』にある「つづらの中の鏡の話」を紹介されています。 次のような話です。

 借金苦のために逃げ出した男が、荒野で宝物の詰まった葛籠を見つけた。男は大喜びして蓋を開けると、宝物の上には鏡が置いてあり、そこに「男」が映った。男は慌てて詫びた。「盗むつもりではなかった。ここにあなたが居ることは知らなかったのです」。


 やはり、鏡を知らない人の物語です。登場するのは男一人だけ、落語『松山鏡』よりシンプルですが、自己の鏡映像に気づかないままに終わるところは落語と同じです。  釈先生は、この話は「我々も幻のような「自分」にまどわされ、まるでそれが真実であるかのように信じている。それでは苦痛は解体されない、といった仏教の教えが説かれている」と解説されています。仏教における認識論を踏まえた説話というわけです。


仏教説話と能・狂言

 このような自己鏡映像認知をモチーフとする類似の仏教説話は、仏典『雑譬喩経』にも載っていますので、以下に紹介しましょう。

 夫が妻に「酒を一緒に飲もう」と言う。妻が台所の酒甕を開けると「女」が映ったので、「甕の中に女を囲っている」と夫を責めた。不審に思った夫が甕を覗くと「男」が映ったので、「お前こそ、甕の中に男を隠している」と妻を責め、夫婦喧嘩になった。そこに僧侶が来て「甕の中の人に出てきてもらおう」と大石で甕を打ち壊す。結果、夫婦は自分の影だったことを知って、恥ずかしく思った。


 夫婦喧嘩の果てに、第三者が鏡を覗くところなど、落語『松山鏡』により近いプロットになっています。しかし、落語では自己鏡映像認知が欠けたままにオチるのに対して、この説話では夫婦は自己の鏡映像に気づいて終わります。こちらのほうが、僧侶の説教には向いているかもしれません。

 ところで、自己鏡映像認知をモチーフとする仏教説話の流れは、落語だけではなく、能『松山鏡』や狂言『鏡男』にも確認できます。以下に梗概を記します。

能『松山鏡』 「越後の松の山家」で、妻を亡くした某は後妻を迎えるが、姫が義母に懐かないで、鏡に映る自己を亡母だと思い込んで毎日鏡を見て過ごしている。そこに母の亡霊が現われるが、姫の供養の功徳によって成仏する。

狂言『鏡男』 「越後の松の山家」に帰宅した男は、都で買ってきた土産の鏡を妻に与えた。鏡を覗いた妻は「都から女を連れ帰って来た」と怒る。男が「鏡」であることを説明するが納得しないので他の者にやるというと、妻は「その女をどこに連れて行くのか」と怒る。


 能『松山鏡』は、亡霊の成仏という実に能らしいアレンジをしています。狂言『鏡男』は、このまま落語にできそうな滑稽味があります。落語が「越後の松山村」の正助を主人公にするのは、この能・狂言の影響でしょうか。

 しかし、落語『松山鏡』の成立を「仏教説話→落語」、あるいは「仏教説話→能・狂言→落語」というような単純な流路だけでは説明できないように思います。もちろん、『松山鏡』の作者が『百喩経』や『雑譬喩経』を読んだか、寺院などの説教で聴聞した可能性は否定できません。あるいは、能・狂言をヒントにしたことも考えられます。さらには、江戸後期の山東京三の随筆『歴世女装考』(1847年)には、先に引用した『雑譬喩経』の説話が載っていますから、それを読んでいたかも可能性もあります。山東京三は、有名な山東京伝の弟で、京伝と同じく戯作者として活躍していましたから、その可能性は低くない。
 しかし、私はより広く当時の世相にも視野を広げたいと思います。


見世物「七面鏡」の国々

 それは、日本人の「鏡」についての心象に関わります。
 神話「天の岩戸」では「八咫鏡」が重要な役割を果たします。天照大神が岩屋に閉じ籠ると外は真っ暗になる。天照大神が岩戸の透き間から外を覗くと、そのとき差し出された鏡に自身が映り、外が明るいと錯覚して岩屋から出る有名な神話です。
 ここで、神様なのに自己鏡映像認知に欠けているのはオカシイなどと言ってはなりません。神話とはそういうものなのですから。ここでは、鏡の中にもう一つの世界があると錯覚したことに留意すればいいのです。

 この「八咫鏡」は「八尺瓊勾玉」「草薙剣」とともに三種の神器とされています。勾玉・剣・鏡の象徴するところについては、「勾玉=生殖、剣=武力、鏡=農耕」や、「勾玉=子、剣=男、鏡=女」、「勾玉=仁、剣=勇、鏡=知」などの諸説があります。しかし、私は現世ではない三世を象徴するものと考えています。胎児を象徴する勾玉は「前世=生まれる前の世界」を、死を象徴する剣は「後世(ごせ)=死語の世界」を意味し、鏡はそこに映った現世とは別のもう一つの世界=パラレルワールドを象徴しているのです。

 落語『松山鏡』の正助・女房・尼たちも、鏡の向こうにはもう一つの世界があると考えました。鏡の向こうのパラレルワールドについては、文政八年(1825)、名古屋の清寿院で興行された見世物「七面鏡(ななおもてのかがみ)」にも通底します。尾張藩士で画家でもあった高力種信(号、猿猴庵)の見世物記録『新卑姑射文庫』によれば、清寿院の境内に設けられた仮会場には、次の七枚の鏡が展示されていたといいます。

一、長命国之鏡    ほそながくうつるかゞみ
二、大人国之鏡    大きくうつるかゞみ
三、小人国之鏡    小さくうつるかゞみ
四、逆見国之鏡    さかさまにうつるかゞみ
五、平面国之鏡    ひらたくみせるかゞみ
六、南京国之鏡    異相(けうなかほ)にうつるかゞみ
七、オランダの洗鏡  うつくしくみせるかゞみ

 現在でも遊園地などのミラールームには、背が高くみえたり、あるいは太ってみえたりする曲面鏡が置かれていますが、その類です。最後に「美しくみせる鏡」を配しているのはなかなかの工夫ですね。本当に美しく映ったか否かは知りませんが・・・。
 興味深いのは、単なる歪んで映る鏡としてではなく、「〇〇国之鏡」と説明していることです。鏡の向こうの異国を映すと説明していることで話題を呼ぼうとしたのでしょう。「八咫鏡」以来の伝統です。


『ガリバー旅行記』の七ヶ国

 私は、「七面鏡」には、スウィフトの風刺小説『ガリバー旅行記』(1726年初版発行)の影響があったとみています。六面でもなく八面でもなく、七面であることについてです。周知のように、船医ガリバーが小人国、巨人国などを旅行する話ですが、実は計七ヶ国を訪問しているのです。この小説が翻訳されるのは明治以降だと思われますが、そのプロットは江戸後期には伝えられていたと考えられます。

 なぜなら、この七ヶ国中に「日本」が含まれているからです。ガリバーの到達順に挙げると、①小人の国、②巨人の国、③ラピュタ(飛島)、④死者を蘇らせる国、⑤不死の国、⑥日本、⑦馬の国となります。⑥日本以外は、スウィフトの空想による国です。
 日本に来たガリバーは、江戸で将軍に謁見し、「わがオランダの同朋に課せられるという踏み絵の儀式だけはどうかご勘弁をいただきたい」(岩波文庫、1980年)と願います。日本人にも興味深いエピソードです。

 ここで、ちょっと「踏み絵」に脱線します。一昔前までは、キリシタン禁止のためにマリア像やキリスト像を描いた銅板などを踏ませた行為を「踏み絵」と言いましたが、現在は教科書でも、その行為は「絵踏(えふみ)」になっています。そりゃそうです。「青緑」といえば、青みがかった緑色ですし、「緑青」は緑がかった青色をいいます。熟語の前の漢字は性格を、後は本質を表しますから、踏む行為は「絵踏」、その銅版が「踏み絵」なのです。
 ですから、山岳道路などで「落石注意」の看板をみて「崖上の落石に注意を払いながら運転したら危ないやないか」を怒ってはなりません。「落石」ですから、路上に落ちている石に注意しましょうということなのです。もし、落ちてくる石を避けながら運転しなさいということなら「石落注意」となります。もっとも、そんな道路は「通行禁止」になりますが。

 ガリバーに話を戻します。鎖国下にも通商していたポルトガル人にしてみれば、日本が登場する面白い小説を持ち込まないわけがない。「七面鏡」がガリバーの「七ヶ国」の影響を受けたと考える所以です。そして、もう一つ、江戸時代に『ガリバー旅行記』のプロットが伝わっていたと考える根拠があります。

 それは、風来山人の『風流志道軒伝』(1763年)によります。風来山人とは、あの平賀源内のペンネームです。同書は、講釈師の深井志道軒の諸国遍歴を描きますが、その諸国の中には「何れも身の長(たけ)二丈(6m)あまり、背に負うたる子の形も日本人より大なれば、是こそ名に応う大人国ならん」とか、「ここは小人島にて、人の大きさ一尺二、三寸(36~39㎝)に過ぎず」(『日本古典文学大系 風来山人集』岩波書店、1961年)というように、『ガリバー旅行記』の影響が見られるのです。見世物「七面鏡」にガリバーの影響は間違いなくあったはずです。


仏教から落語への流路

 仏教説話が落語ネタに転化される周辺条件について探ってきました。
 まずは、落語『松山鏡』成立の最大の条件として、「自己鏡映像認知」という庶民にも親しみやすく面白いモチーフであることを挙げておきましょう。どんなに崇高な教えであっても、面白くなければ、親しみやすくなければ、落語にはなりえません。その意味では、「自己鏡映像認知」は落語ネタに打って付けでした。なぜなら、だれもが「自己鏡映像認知」ができない乳幼児を経験してきたのですから。そして、神話によって鏡の向こうの世界を受け入れやすい心象風景を持っていたからです。ですから、能・狂言の演目にもなったのです。

 その一方では、『ガリバー旅行記』の影響を受けた『風流志道軒伝』(1763)などによって、鏡の向こうの世界は、よりビビッドに受け入れられるようになっていました。名古屋の見世物『七面鏡』(1825)が人気を博したのも、むべなるかなです。

 この江戸後期には、初代・桂文治(1773~1815)が大坂・坐摩神社の境内で落語の寄席を始め、落語の隆盛に向かう時期でした。それまでの境内や路上といった屋外で披露されていた落語に、新たに寄席小屋ができたことにより、じっくり話を聞ける環境が生れたのです。瞬発力を持った小噺だけではなく、ストーリ性のある噺が求められるようになりました。結果、数多くの落語ネタが作られていきますから、「自己鏡映像認知」の説話が落語ネタに昇華されるのは時間の問題だったというわけです。


『新卑姑射文庫』(『猿猴庵の本 名古屋市博物館資料叢書3』2002年)

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高島幸次(たかしま・こうじ)

1949年大阪生まれ。大阪大学招聘教授、大阪天満宮文化研究所研究員などを兼務。日本近世史を専攻し、地方誌史への執筆や、各種セミナーの企画なども多く行う。NPO法人「上方落語支援の会」理事や天満天神繁昌亭大賞選考委員として落語にも関わっている。

著書に、本コラムを書籍化した『上方落語史観』』(140B)のほか、『奇想天外だから史実ー天神伝承を読み解くー』(大阪大学出版会)、『大阪の神さん仏さん』(釈徹宗との共著、140B)などがある。

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