ミシマ社の話

理想と現実、理論と実践、表と裏、S(出版社)とM(ミシマ社)......。「出版社をつくる!」、「ミシマ社のばあい」という二つの視点から、100年後のミシマ社メンバーに向けて、「ミシマ社が目指すもの」を語る。

第6回 原点回帰の出版社

2009.09.15更新

出版社をつくる!(5)―― Do or Not

「あれ作ったの、オレ」
親指を自分のほうに突きたて、こう語る人、いませんか?
ちょっと話題になったCMやら本やらを指して、あれは自分が作ったんだよ、という人たちです。広告業界や出版関係者に、やたら多いような気がしてなりません。

かく言う私も、同じような「親指野郎」であったことを認めます。
「この本作ったの僕なんだ」というようなことを、周りの友人たちに言っていました(うざい話です。みなさま、ご迷惑をおかけしました)。

若気の至り・・・・・・。20代半ば、何かと勘違いをしやすい年頃だったのです。
もっとも、言い訳のようですが、勘違いするのもむべなるかな、というところは実際にあります。

たとえば、書店に並ぶ一冊の本。
その一冊の本は、どんなふうにできるかと言うと、どれ一つとして、決まったパターンで作られたものはありません。
無理を承知で大雑把に分けると、次の4通りの作られ方があります。

①目次からタイトル付けまで、すべて作家さん一人で行う場合(作家独走型)
②作家さんと編集者の対話の中で練り上げていく場合(作家・編集者併走型)  
③目次やタイトルなどを編集者が考え、作家さんは中身に集中する場合(作家・編集者分業型)
④目次・タイトルはもちろん中身まで編集者が練る場合(編集者依存型)

ちなみにミシマ社では、④のように「中身まで編集者が練る」という類の本を出すことはありません。書き手の方あっての本ばかり、です。
実際、私がこれまで編集した本の多くは、①~③に含まれます。
とはいえ。
③のように、目次や構成まで編集者がつくったりなんかしているうちに、本ができあがると、「ついつい」自分が作ったような錯覚になってしまいがちです。しかも、それが売れちゃったりなんかすると・・・・・・。勘違いするのもむべなるかな、と申したのはそのような理由です。

だけどそれは断じて違う。

なぜなら、そこで編集者がやっていることは、「当たり前」にすぎないのだから。
サッカー選手であれば、90分間走りぬいて、ゴールを目指す。
野球の先発ピッチャーであれば、1回から9回まで零点に抑えるように投げる。
その前提として、サッカー選手なら、普段の練習で、90分間集中できる体力を養うために走りこみをする。野球のピッチャーなら、キャンプから何百球、何千球という球数を投げ込む。それは特筆すべきことではなく、その仕事をするうえで「最初から織り込み済みなこと」にすぎない。
つまり、すべては「当たり前」のことばかり。

こうしたことと同じくらい、編集者が行う①~③のどの動きも、当たり前のことにすぎません。
なのに、当たり前のことをやって、あれは僕の仕事です、とわざわざ主張する。なんだかおかしな話です。

ではどうしてこんな「おかしな」勘違いが生まれるのでしょう?

いろいろ理由は考えられますが、ひとつは、仕事が細分化しすぎたためだと思います。

出版と一言でいっても、営業、編集、経理、広報などの「部署」に分かれがちです(ちなみに、ミシマ社では分かれていません)。このような大きな分け方はもちろんのこと、編集ひとつとっても、企画、制作、構成、校正、デザイン、予算管理などなど、いろんな要素で成り立っています。

そのいろんな要素を、一人の人間が行うのではなく、複数の人間が各パートを担当する。それぞれの「専門家」として。
そうして、各パートの「プロ」や「専門家」たちによって、質が担保されるわけです。
実際、細分化、分業化することによって、質は上がっています。
サッカー選手の例でいうと、センタリングの練習「だけ」をサイドバックの選手がやっていれば、パスの精度はどんどん上がっていくでしょう。それと同じことです。

だが、一方で。

福岡伸一先生が、『世界は分けてもわからない』とおっしゃっておられますが、同様に、「仕事は分けてもわからない」のです。
むしろ、分けるほど、人は不安になっていく。
そして、不安になった人間は次にどういう行動をとるか。
簡単です。
「いばる」ようになるのです。そこまでいかなくとも、へんに「プライド」が高くなります。当たり前のことをやっているのに、それは僕の仕事、と「わざわざ」主張せざるを得ないほど不安になって・・・。

それほどに不安になるのは、自分のやっていることと、会社全体の仕事が切り離されているように感じるからでしょう。
たとえば、いくらセンタリングの技術ばかり磨いても、ディフェンスができなければ、というより、それ以前に90分走りきれなければ、チームの勝利に貢献できないわけです。それは、選手自身、うすうす気づいている。だからこそ、「いや、これは大事な役割なんだ」というふうに自分に、そして他人に主張する。

そういうふうに、自己肯定することでしか、自分を維持できないわけです。実際、いくら「当たり前」のことであっても、「たいへん」なことには変わりませんから。

だけど、会社を始めていちばん痛感したことは、その「たいへんさ」は、どこまでいっても、「部分」でしかないということです。そして「部分」の精度をどれだけ磨いたところで、前進はありえない。
なぜなら、「代わり」がいないわけですから。
先にあげた「制作、構成、校正、予算管理」という編集の「各パート」はもちろん、経理、営業、広報といった「部署」も、ぜんぶ一人でやるしかない。
これは、アイツの仕事だから、なんて悠長なことは言っていられないわけです。

Do or Not.
やるか、やらないか。
「やれない」という選択肢はなし。それは、「やれない」のではなく「やらない」にすぎない。
やれないと思う以前に、やれるようにするのみ。

しかも、これまでの実績などまったく意味をもちません。びっくりするくらい、まったく。

「あれ、オレが作った本」なんてことをいくら言ったところで、「これから」売れる本をつくれることの保証にはまったくならない。
ましてや、営業という未体験ゾーンをするにあたって何のたしにもならない。

やる。とにかく、前を向いて昨日の自分よりさらにいい仕事を目指して、やる。
昨日までの仕事、昨日までに手がけた本、昨日までのアイディア、昨日までのすべては、「昨日までの私」がやったこと。
今日の私の仕事ではない。
しかも「今日の私」に課せられたタスクは、「各パート」の精度はこれまで以上に高く、かつ同時に「全体」を動かしていくということ。
それができなければ、個人はおろか、会社の「明日」もないのだから。

過去の人にならないためにも。
会社を明日につなげていくためにも。
―― Just Do It.

こうして、ミシマ社にとっての「当たり前」、つまり「原点」はできあがっていきました。

精度の高いセンタリングを上げるだけでなく、ディフェンスもすれば、ドリブルで突破し、シュートを決めるところまでやる。
そこまでやって、「当たり前」。
裏を返せば、そこに至らない動きは、残念ながら意味がない。どんなにいいドリブルをしても、途中でカットされシュートに結びつかなかった動きが、一切の評価を受けないのと同じように。
0か1か、白か黒か。
Do or  Not.

できたての出版社にとって、グレーゾーンなど当然、なし。

そして、この発想は、「原点回帰の出版社」という考えにもつながっていきます。
やるべきことを、まずはやる。
四の五の言う前に、まずはやる。
出版社たるもの、そうでなくてはならないと思ったのです。

なにせ、出版社は言葉で勝負しているわけですから。そして、言葉というのは常に行動とセットであるべきものですから。
だから。
親指は、天に向けて立てましょう。「やったるで!」の気合いとともに。
「未来形」で語られる言葉は、いつだって、行動が伴います。
親指を自分に向けていては、未来は語れないですものね。


次回「第7回 原点回帰の出版社(2)――ミシマ社のばあい(5) 原点回帰って何?」をお届けします。

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三島邦弘(みしま・くにひろ)

1975年京都生まれ。1999年大学卒業後、PHP研究所に入社。単行本の編集者となる。2003年退社後、東欧などを旅する。同年10月、別の出版社で編集活動を再開。2006年10月株式会社ミシマ社を単身設立。「原点回帰」の出版社を標榜し、編集・営業・仕掛け屋などチームの枠を超え、「出版は全身運動である」という思いのもと、日々、奔走中。
「ミシマ社のblog」もがんばって書いてます。

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