ミシマ社の話

理想と現実、理論と実践、表と裏、S(出版社)とM(ミシマ社)......。「出版社をつくる!」、「ミシマ社のばあい」という二つの視点から、100年後のミシマ社メンバーに向けて、「ミシマ社が目指すもの」を語る。

第17回 スーパー辺境人のすすめ

2010.03.02更新

「電子書籍についてどう思います?」

最近、人に会うたびに訊かれる質問だ。
Kindle、Reader、iPad・・・次々に売り出される電子書籍端末。どうやらアメリカでは、「ものすごく」売れているらしい。対応急がれる出版業界! ある新聞には「黒船来襲以来のインパクト」といったようなことまで書かれていた。
実際のところ、「紙の出版を守れ」と主張する擁護論者(佐幕派ならぬ佐「本」派)がいる一方、電子ブック礼賛論者(開国派ならぬ開「電」派?)が血気盛んに大衆をあおりだしている。
「従来の出版社を現在の地位から引きずりおろし、数年後、この国の出版界の覇権を手にしようではないか!」
幕末とまったく同じ構図、しかもそのとき以来、くりかえしくりかえし語られてきた同じ語り口がそのまま適用されている。
「今こそ幕府を転覆し、開国するのじゃ。でないと、日本は後進国になってしまうぞ」
内田樹先生がおっしゃるように、見事なまでに「変化の仕方は変化しない」ようだ。

 私たちがふらふらして、きょろきょろして、自分が自分であることにまったく自信が持てず、つねに新しいものにキャッチアップしようと浮き足立つのは、そういうことをするのが日本人であるというふうにナショナル・アイデンティティを規定したからです。        (内田樹『日本辺境論』新潮新書、p30より)

株を買わざるものは人にあらず。と言われれば、一億総投資社会に。
国際会計を導入せねば、日本経済はますます遅れる!とアナウンス(ほんとは圧力)がはいれば、「んじゃ」となる。
今回もしかり。
そういう意味で、「これからは電子ブックの時代だ」と唱える人たちと「ついつい」なびいてしまう人たちというのは、たいへん日本人的、辺境人的なまっとうさを体現しているともいえるのだろう。

さらに、この十年ほどの経験がこの「浮き足立ち感」を駆り立てる。
つまり、格差を生み出すグローバル経済が拡大した時代状況が、多くの日本人をさらに浮き足立たせているのだ。
どういうことかといえば、「従来の出版社を現在の地位から引きずりおろし、数年後、この国の出版界の覇権を手にしようではないか!」という主張の前に、次のセリフを加えてみてもいいかもしれない。

「今こそ新しいビジネスチャンス。一歩遅れたら、命取り。ひとたび乗り遅れたら、永久に『負け組』だ」

乗り遅れ、負け組になることへの恐怖と不安。そうしたものが、感覚のなかに完全に植えつけられてしまっているのだ。株に手をだしゃ失敗し、あれほど職人仕事をうたっていたモノづくりも「グローバル化」の叫びに流され行き詰まり・・・もう何度も何度も痛い目にあっているにもかかわらず。
それでも、「乗り遅れる」不安に比べれば、「乗っちゃう」ほうが一時的に気持ちが落ち着くのだろうか。
きっとそうなのだろうが、そのあたりは、よくわからない。
よくわからないので、この間ぼくは、両者の動きをただ黙って見たり見なかったりしている。
「おい、何をノンキな、君は当事者じゃないか!」
そんな謗りもあろうかと思うが、ただただ、すみません、というほかない。
だって、「どっちもありだろうし、どっちか、じゃないだろう」と思っているのだから。そして、ぼくの本音は、「どっちでもない」方向に進みたいと思っている。
ただし、そのやり方はまだわからない。

しかたがないので、電子ブックを買うところから始めてみた。
3週間ほど前、アメリカ版Kindleを購入した。申し込んでから数日という驚きの速さでそれは届いた。
着いた当日は、「わー、わー」とみんな「浮き足だって」いた。季節はずれのクリスマス・プレゼントをもらったような気分がしたのだろう。
けれど、その興奮は一日とも続かなかった。
「みんな使ってね」と机に置いておいたのだが、何日たっても、誰ひとり触った形跡がない。その間、端末は一秒たりとも休むことなく、画面の表示を変化させていた。おじさんの顔やら辞典やら、とても電子の「絵」とは思えない精巧さで。誰も見てないのに「放置プレイ」をつづける電子ブックは痛ましささえかもし出していた。
いまではout of battery の表示がむなしく静止しているだけだ。

話はそれるが、オリンピックが終わった。
残念ながら日本は一個の金メダルも取れないまま終わった。それでも、浅田真央選手とキムヨナ選手はじめ、世界最高峰の争いは比類なき感動を運んできてくれた。もちろん、メダルを逃した選手たちの競技であっても、自分を「ギリギリ」まで追い込んでの戦いぶりに、怠惰なぼくらのハートが熱くなるには十分だった。
そういう感動の日々のなかで少しだけ違和感のようなものをおぼえた。
それは、メダルを逃した何人かの選手たちに共通するコメントにある。
「メダルはとれなかったけど、自分らしくできたのはよかった」
世界の頂点を目指してギリギリのところで自分を鍛え上げてきた。限界までやってきた。
あとは練習どおり、自分らしくやるだけ。
半端じゃない鍛錬の日々を潜り抜けてきた一握りの人間だけに語ることの許されたセリフだろう。ふつう、もっと手前の段階で、「こんなの耐えられないや」となるものだ。
もちろんのことだが、今回、オリンピックに出たすべての選手にたいし、かぎりないリスペクトをもっている。その上であえて申したいのだが、インタビューを聴いていて次のようなことを思った。
「もしかして――。自分らしく滑ろうとする、その前提自体がメダルを遠ざけている大きな原因ではないだろうか」
つまり、こう感じたのだ。
オリンピックでメダルを獲る。それってミラクルを起こすということと、そんな大差ないのではないか。最大限の努力を重ねてきた者たちだけの集まりの場で、数人だけに訪れる歓喜の瞬間。それは、「自分らしく」の結果としてもたらされるものではなく、「自分を超えた」結果もたらされるではないか。

「自分がいちばん驚いています」
競技後のインタビューで興奮気味に話すメダリストたちを何人も見てきたが、そういう「自分でもびっくり」する感覚こそ、メダルを個人に近づけるのではないだろうか。
自分らしくが「想定内」の動きであるとすれば、自分を超える動きは「想定外」のもの。
そして、求める結果は「想定外」の動きが本番で起こったとき、はじめてもたらされる。
まさに、人事を尽くして天命を待つのみ、だ。

話を戻そう。
「電子ブックについてどう思うか」
という問いにどう答えるか、である。
結論からいえば、「どうも思わないようにしたい」と思っている。
なぜなら、ミシマ社という出版社は、出版という活動において、いつか金メダルを獲得したいと思っているからだ(何をもって金メダルと考えているかは今日はとても語れないので、いつかまた)。
金メダルを獲得しようと思えば、次から次へと参加競技を変えるわけにはいかない。「電子ブックの波に乗り遅れないように」と動いた数年後、「これまでの電子ブックの概念を180度覆すスーパー電子ブックの時代がやってくる。電子ブックで身につけたノウハウは化石化するよ。さあ、早く!」という掛け声に乗せられ、ふたたびゼロからの出発・・・その数年後にはまた・・・・・・。てな堂々巡りに時間を割くわけにはいかない。
その証拠に、ミシマ社メンバーの誰も、Kindleに見向きもしなかったという事態が起きたのだろう。
つまり、今のところ、ぼくらには無関係なもの。すくなくとも、金メダルにはるか遠い現段階では、「あっちやそっち」へエネルギーを振り分けるわけにはいけない。全員が無意識のうちに、そう感じとっていたのだろう。
だからといって、電子ブック反対なわけではない。なぜなら、自分の殻を打ち破らなければ、金メダルは獲得できないものだから。自分らしく、ミシマ社らしく、紙の本にこだわって、なんて意識をこれっぽっちでももったなら、その瞬間、ぼくらは目標から遠ざかってしまう。
だから、結局のところ、「どうも思わないようにしたい」と思っているのだ。

ミシマ社メンバーはKindleに見向きもしなかった。
それはなぜか。
この問いにたいし、「金メダルから遠ざかるから」と答えたが、ほんとうのところ、これは最大の理由ではない。
真実は――ミシマ社メンバーが、Kindleという超現代的な新製品に、体と脳がまったく対応できていないから、にほかならない。
そう、ふつうの日本人が辺境人だとすれば、ミシマ社メンバーは「辺境のなかの辺境人」、すなわち「スーパー辺境人」なのだ。
野生のおさるさん、と以前ここでも書いたとおりである。
文明に飼いならされていないばかりか、時代に乗り遅れるどころか、時代に対応しようという感覚がそもそもない。
だから、Kindleを「すごい機器」と認識するでもなく、「豚に真珠」的な状況となったのだ。

そこで、ぼくはひらめきとともに確信した。
「スーパー辺境人。これでいいのだ」と。

『文明の生態史観』などの著書をもつ梅棹忠夫先生は、かつてこんなことを言っていたそうだ。
「京都は日本やない。京都は京都や」
これは、「あっちへきょろきょろ、こっちへきょろきょろ」する辺境人的態度と一線を画す京都の風土を言い表したものだろう。たしかに、独創的な技術をもつ企業も多く、かつてノーベル賞受賞者が京大ばかりだったときもある。それもこれも、周りに左右されない、真理だけを追求しようとする精神が「日本やない場所・京都」に宿っているからかもしれない。
そういえば、「京都は世界一の田舎」と評する人もいた。
つまりは、スーパー辺境人の多い地なのだろう。

話が混乱しそうで申し訳ないが、まあ、京都は別にどうだっていいのだ。
ただ、京都から日本を経由せず、京都から直接世界に向かおうとする感覚、それも個人の実感に近い感覚で何かをなそうとする意志、そういうKYOTO的(ミシマガの前身の雑誌名でもある)なるものは、これからの生き方や働き方にも有効なのではないだろうか。
そうぼくは思っている。
だけど、けっして主流派になることはない。
なぜなら、主流派は「うまく波に乗った」人によって、いつの時代も語られるものだから。
主流派をめざさないところに「辺境のなかの辺境の民」たるゆえんはある。

スーパー辺境人、KYOTO的・・・。
ナショナル・アイデンティティたる「いつも不安な私」からそろそろ卒業しようかな、と思う人には、お勧めです。
ただし、「乗り遅れる」ことは必至。そのとき案の定不安をおぼえれば、「やっぱりぼくって辺境人」と実感してください。
なーに、元に戻るだけで、マイナスなことは何もありませんから。
だから安心して、さあ、早く、乗り遅れないで。スーパー辺境人への残席はあとわずか!

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三島邦弘(みしま・くにひろ)

1975年京都生まれ。1999年大学卒業後、PHP研究所に入社。単行本の編集者となる。2003年退社後、東欧などを旅する。同年10月、別の出版社で編集活動を再開。2006年10月株式会社ミシマ社を単身設立。「原点回帰」の出版社を標榜し、編集・営業・仕掛け屋などチームの枠を超え、「出版は全身運動である」という思いのもと、日々、奔走中。
「ミシマ社のblog」もがんばって書いてます。

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