ミシマ社の話

理想と現実、理論と実践、表と裏、S(出版社)とM(ミシマ社)......。「出版社をつくる!」、「ミシマ社のばあい」という二つの視点から、100年後のミシマ社メンバーに向けて、「ミシマ社が目指すもの」を語る。

第18回 「奇跡」は毎日起きるもの

2010.03.16更新

うーん。
答えに窮した。
green drinks Tokyo」というトークセミナーでの質問応答での出来事だ。テーマは「社員は10人以下!これが僕らの『組織のつくり方・働き方』」。
それまでは比較的、スラスラと質問されるまま答えていたと思う。

「学生ですが、すぐに起業すべきか、就職すべきか」というご質問には、「やりたいことがあるということですが、そもそも、そのやりたいことをやるためには『タメ』が必要で、その『タメ』をまずはつくることじゃないでしょうか。あとは現実的な問題との相談。何年か働かなくても大丈夫という環境であれば、すぐに起業するのもありかもしれないし、無理なら働きながら『タメ』をつくるべきでしょうし」てなことを申し上げた。

ほかにも、「社員のモチベーションをあげるために工夫されていることはありますか?」と聞かれれば、「特にありません」とお答えした。そんな身も蓋もないことを、とお思いかもしれないが、事実だからしかたがない。ただし、「そういうことは考えませんが、気を合わすようにしています。お昼ごはんをちゃぶ台囲んで食べたり、毎朝、神棚の前で一斉にパチパチやったり」ということは付け加えた。これも事実だからしかたがない。

ところが、ただひとつ、返答に困った問いがある。
「理想をもちつつも、現実問題として、お金のためにやりたくなくてもやらなければいけない仕事もあると思うのですが、そのときはどうされていますか」
うーむ。
正直なところ、しばらくの間、「うーーーん」としか答えられなかった。
「わからない・・・ですね。うーん」

わからないのは、そういう状況があるかどうかがそもそもわからないのだ。いま身の周りを見渡してみても、嫌な仕事などない。まして、お金のためだけにやる仕事などない。
と思っているが、ぼくだけがそう思い込んでいるのかもしれない。ほかのメンバーは、「けっ」と思っていることだって大いにある。
だから、うーん、なのだ。

そのときふとこんな言葉がついて出た。
「元気かどうか、じゃないでしょうか。元気であることがいちばん大事。元気なら、おもしろい仕事をどんどんできるでしょうし。元気があれば・・・」とあやうくイノキ師匠の十八番を口にしかけたところでやめた。あぶないあぶない。

会が終わってからずっと、どうして答えに窮したんだろうと考えていた。考えて考えた結果、あることに気がついた。「問い」それ自体が答えられないものであったのだ。
なーんだ。そりゃあ、答えられないはずである。

たとえば。
ここにモテない高校生の男子がいる。生まれてこの方、女の子とつきあったことがない。ばかりか、まともに話をしたことすらない。気の毒なほどのにきび面にくわえ、鼻毛ぼーぼー。女子高生が通るたびに、瞳をギラリ、I want you 光線を投げかける。鼻息はガスバーナーより熱い。全身から「モテたい」臭がほとばしっている。
残念ながら、というか当然の結果として、彼はモテない。
完全にモテないスパイラルに陥っている。
そもそものところでまちがっているのだ。

外見はしかたがない。それも個性といえなくもない。にきびも鼻毛も武器になることだってある。だが、鼻息とI want you光線はいただけない。モテるという目的のために、モテたいというメッセージを全身から発しては。これじゃあ、手に入るかもしれない「モテる」も遠ざかるというものだ。

ほんとうにモテたいのなら――。最初はまったく振り向いてくれない相手を振り向かせるには――。

真っ先にすべきは、相手を喜ばせること。そういうことではないだろうか。
プレゼントを贈ったり、何かうれしいことを伝えたり、そこまでするかというほどの献身的行為をおこなったり・・・。

大切な人を振り向かせるには、そうするほかない。むかしから相場は決まっている。嘘ではない。その証拠に神話から現代小説まで、くりかえし同じ主題が描かれているはずだ。そしてそのことを、ぼくらにとてもロマンチックかつ温かいかたちで教えてくれたのが、『エドワード・シザーハンズ(Edward Scissorhands)』だろう。

手はハサミ、極端に真っ白い顔、体は黒のビニールのようなものに覆われている。開発した博士が突然他界したため、人間としてけっして完成することはない、永遠の異端児・エドワード。ふとしたことがきっかけで人間の住む街にやってきたエドワードはすぐに一人の少女に恋をする。だが、ウィノナ・ライダー演じるキムは、当初、エドワードを不気味がり、距離をおこうとする。とても「この世のもの」と思えないエドワードに怖れの気持ちが優先してしまう。

ある日のこと、キムのボーイフレンド・ジムが「盗み」を企てる。エドワードにあのハサミで鍵をあけてもらい、忍び込もうという策略だ。キムはジムに強引に説得され、しぶしぶエドワードを連れ、深夜、企てを実行する。ところが、鍵を開けしばらくすると警報機が作動し、エドワード一人が忍び込んだ家に閉じ込められてしまう。ほかのメンバーは一目散に逃げてしまったのだ。結果、ひとり警察に逮捕されたエドワード。

だが、かれはけっして真実を語ろうとはしない。
「ぼくは誘われてやっただけ」
そう言ってもいいはず。けれど、結局、誤解をまねいたまんま、「山で一人で育ったため、善悪の判断力がつかない」という理由で釈放される。
戻ってきたエドワードを見て、キムはかけよって感謝の言葉を述べる。
「ありがとう」
「じつは、あの家は、ジムの家だったの」申し訳なさそうに告白するキム。
エドワードは小声でこうこたえる。「知ってたよ」
「え!? なのにどうして手を貸してくれたの?」
「君の頼みだから(you asked me)」

そしてクリスマスがやってくる。クリスマス、それは現代において、唯一、神々の世界、自然の世界、人間の世界(や現代の資本主義社会)が融合する、そういう神話的なときである。

クリスマスには、死霊といわず、ありとあらゆるタイプの霊(スピリット)が社会の表面にどっとばかりにあふれでてきます。・・・資本主義は交換の原理によって、富の増殖を実現しているけれど、クリスマスは贈与の原理にもとづいて、幸福感の増殖と作物の増殖をお祝いしようとしている。クリスマスこそ、われわれの求めている夢の体現者なのではないか。われわれのまだ実現できていない夢を、クリスマスは農民風の装いのもとに、もう何千年も前から実現してみせていたのではないかしら。 こうして、現代のクリスマスははじまったのです。 (中沢新一『愛と経済のロゴス』講談社選書メチエ、p185-186)


この日キムは、はじめて「人間的色眼鏡」を捨て、素の気持ちで、異界の住人・エドワードを見(まさに、「クリスマスの効果」)、エドワードにやさしく「抱いてほしい(hold me)」と願う。忌み嫌われていたエドワードの「思い」が通じた瞬間だ。けれど、エドワードは「できない(but I can't)」と言う。ハサミの手では、大好きな人をhold することもできないのだ。
それでもこの日のキムは「大丈夫」とやさしくエドワードの肩によりかかる。
こうして、クリスマスの日、「異界」と「人間世界」が接近するという、まさに「奇跡」が生まれる。

話をそろそろも戻さなければいけないが、エドワードのこの無私の気持ちと態度こそが、頑なな現代っ子キムの心をも溶かしたのだ。

ほんとうにモテたいのなら――。最初はまったく振り向いてくれない相手を振り向かせるには――。

この問いに対しては、すでにエドワードが答えてくれているとおりだ。
そして、ようやくここで本来の疑問に立ち返ることができる。
「モテたい」を「お金がほしい」におきかえてみると、いっきに答えが見えてくる。

ほんとうにお金がほしいなら――。ぜんぜんお金がない状況からお金を得るためには――。

エドワードの行動をもう一度振り返ってみよう。
キムという一人の女性へ無償の愛をそそぐ。そこには打算はない。その人が喜ぶだろうということだけを考えて行う行為(『カイエソバージュ』のなかで「純粋贈与」と呼ばれるものだろう)。
もちろん、ぼくたちの生きる資本主義という社会で、同じことをおこなうのはむずかしい。だが、それに近いことならできるはず。
つまり、ぼく自身の仕事でいえば、目の前の本にあらんかぎりの愛情を注ぐこと。そういうことになるだろう。

先に、「お金のためにやりたくなくてもやらなければいけない仕事もあると思うが、そのときはどうするか」という問いそのものが答えられない問い、と述べた。
その理由はこういうことだ。
お金が現実的に要るという理由のために<やらなければいけないもの>。もしそういうものがあるとすれば、それは<やりたくない仕事>ではなく、<あらん限りの愛情を注ぐこと>なのだ。

だから、こういう問いであれば、ぼくにも即答できたかもしれない。
「お金が必要なとき、『ふつう』に求められる以上に仕事に愛情やエネルギーや魂をこめなければいけないと思いますが、そのときの気持ちはどういうものですか?」

「うーん、そうですね。これ以上、この本に愛情やエネルギーや魂をこめることは無理というところまでやりたいですね。
当然、気持ちは、ぼく以上に愛情を注ぎ込む人がいるなら、『出てこい、このやろう!』というものです。もちろん口調はイノキ師匠で(笑)」


PS 最後に。エドワードが教えてくれたもうひとつの大切なことを。

「奇跡」はなにもクリスマスの日しか起きないわけではありません。その証拠に、エドワードの周りでは、「奇跡」は日常のように起きている。そう、人間が「奇跡」と呼ぶ<忘れかけた喜び>は、エドワードの生きる世界では<ふつうのこと>でしかない。
だから、ぼくらもできるかぎりまっさらな気持ちで日々をすごしたいものです。キムがクリスマスの日に「色眼鏡」をとったように。

「奇跡」は毎日起きるもの。

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三島邦弘(みしま・くにひろ)

1975年京都生まれ。1999年大学卒業後、PHP研究所に入社。単行本の編集者となる。2003年退社後、東欧などを旅する。同年10月、別の出版社で編集活動を再開。2006年10月株式会社ミシマ社を単身設立。「原点回帰」の出版社を標榜し、編集・営業・仕掛け屋などチームの枠を超え、「出版は全身運動である」という思いのもと、日々、奔走中。
「ミシマ社のblog」もがんばって書いてます。

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