ミシマ社の話

理想と現実、理論と実践、表と裏、S(出版社)とM(ミシマ社)......。「出版社をつくる!」、「ミシマ社のばあい」という二つの視点から、100年後のミシマ社メンバーに向けて、「ミシマ社が目指すもの」を語る。

第21回 ブリコラージュな会社?

2010.05.11更新

ふと旅に出ようという気になった。いつものように、根拠なく「奄美大島かな」と行き先を決め、いつものように宿泊先も旅程も決めずに現地に向かった。そうして、気づけば奄美大島の南、加計呂麻島についていた。

フェリーから降り立つと、そこでは時の流れが止まっていた。
港は、何台かの自動車と乗り合いバス三台をのぞいて、閑散としていた。宿を決めていなかったので、フェリー乗り場で見つけた「かけろまフリーMAP」に掲載されていた民宿に電話をかけた。一軒目は通じなかった。つぎに、「おばばとの語らい」という文言に心惹かれた民宿に電話すると、「はい」とおばばらしき声がする。

「今日、泊まれますか?」
「・・・・・・はい。隣の部屋とは板一枚で仕切られてるだけですがいいですか?」
「はい」
「いまどこです?」
「港です。車はありません」
「なら、すぐにバスに乗って。それに乗り遅れたら今日はもうバスはありませんよ」
「はい・・・」
顔をあげると、そこにあったはずの乗り合いバス三台の姿はなかった。
「もう行ってしまったようです」
「あらあ、じゃあ、歩くしかありませんね。歩いて・・・30分くらいですかね」
「うっ・・・。わかりました」

一日に数本しかない乗り合いバスに乗り損ねたぼくらは、バックパックを背負い、てくてく海沿いを歩きはじめた。4月末でもセーターが手放せないでいた東京とは打って変わって、亜熱帯特有の"蒸し蒸し"をのせた潮風に、ものの数分で汗がにじみ出てきた。

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一つ目の集落が視界にはいると、おばあちゃんが一人、杖をついてのろりのろりと歩いているのが見えた。やがて、おばあちゃんは集落の壁によりかかるような姿勢で、こっちを向いてたたずんだ。近づくと、おばあちゃんは何かを言った。何を言ったかは聞き取れない。

「こんにちは」

ぼくらが声をかけると、100歳は優に超えると思われるおばあさんが、口に手をあて、照れくさそうにはにかんだ。どうやらぼくらを知り合いの誰かと間違ったらしい。おばあさんの少女のような仕草に、思わず胸がきゅんとした。おばあさんの立つ背後に目をやると、10軒にも満たない集落の家々からは、白い煙がたなびいていた。きっと夕餉の支度をしているのだろう。

結局、いくつかの峠をよっこらしょ、よっこらしょと越え、宿屋に着いたときは、出発から一時間近くたっていた。峠を越え、エメラルドグリーンの海が見えるたびに、「着いた!」と胸躍ったが、じきに上り坂にさしかかった。登っては息をきらし、胸躍っては落胆し・・・そんなことを5度ほど繰り返した。けど、宿のある「スリ浜」に着いたとたん、すべての苦労が吹き飛んでいった。
海と浜がなんとも美しい。

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そして、おばば。トトロみたいにまるまるとしたおばばが、「ああ、ご苦労さんでした」と笑顔で迎えてくれると、疲れていたことすら忘れてしまった。

このスリ浜といわれる集落には、三軒の民宿しかない。おばばの民宿は、その三軒のうち、明らかにいちばんボロボロだった。
「この家は素人がおもしろがってつくったものなの。だからいろんなところがおかしいですけど、まあ・・・」そう言って、おばばは笑った。たしかに、民宿の和室なのに、鍵が古いホテルの鍵みたいだった。鍵をかけて外に出るばあい、ボタンを押した状態でそのままチカラいっぱい引かないといけない。鍵では開けることはできても、閉めることはできないのだ。正直いって不便ではあったけど、機能を果たしていないわけではない。だけど、「素人」の人が何をおもしろがってこうしたのかはわからなかった。

それと、一階の食堂の中心部に立つ、一本の柱もなんだか不思議だった。真ん中あたりでやや婉曲した一本の木は最初からそこに備わっていたように見えなくもない。だが、実際はおばばが「拾ってきた」ものだった。

「この木はね、台風が過ぎ去ったあと、前の浜にあった流木よ。この大きさでこの形で流れ着いていたものだから。不思議なこともあるわねえと思って、わたしがそのまま持って帰ってきたの。この家は素人がおもしろがってつくったものだから、二階が落っこちそうだし、ちょうど柱にもなると思って。そのまま柱にしたのよ」

「補強したり、ニスをぬったりしたのですか?」
「ううん」とおばばは、あるかないかわからないくらい短い首をふった。「そのままよ」
たしかにいつ落っこちてもおかしくない雰囲気が漂っていた。いまこの瞬間も二階が落っこちない保障などどこにもない。すべては、この一本の流木にかかっている。
この柱を見ながら、「素人がおもしろがって」つくったとおばばは言うが、一番おもしろがっているのは、おばばにちがいにないと確信した。

二日目の午後、午前に島を案内してくれた人の紹介でヨットをすることになった。
何年ぶりだろうか。
学生時代、三年ほどヨットに乗っていたことがあるので、久しぶりにヨットで海に出るということで気持ちが晴れ渡った。ちょうど、かけろまの空のように。
ぼくらを乗せてくれた、「りゅうちゃん」は全身海の男だった。

なんでも、ある日「海だ!」と思いついたらしい。で、未経験ながら突然ヨットを購入。三日ほど練習をつんだのち、三年半におよぶ「ヨットの旅」に。「一年ほど乗ってると、だいぶ慣れた」ので、奥さんも合流。1年半ほど一緒に航海生活をしたという。その後、日本中を旅したなかでも「人がほんとやさしい」という理由でが「かけろま」に定住。といいつつも、夜は布団のなかより船上のほうが落ち着くらしく、週の大半は船上で寝起きする。ついこの間も、家族4人(3歳と1歳の子ども)で一月半におよぶ沖縄旅行をしてきた。もちろん、ヨットで。
りゅうちゃんは、そんな筋金(すじがね)入りすぎたヨットマンだった。家族全員、「日焼け」の域をはるかに超えた肌をしていた。

こんな人と一緒にヨットに乗れるだけで幸せなのに、またヨット自体がユニークなのだ。
500フィートのヨットは、ぼくらが大学のときに乗っていた470級という二人乗りのディンギーよりもはるかに大きい。そのヨットを、一人で操縦できるように(なぜなら、完全素人のお客さんたちを乗せねば商売にならないから)、特別過ぎる仕様が凝らされていた。

たとえば、ヨットの先端。
通常ヨットは、先端のとんがりから、下へと一本の線が延びていて、その線を中心線として、後方部へ向かって左右に緩やかにふくらんでいく。そうして、うっとりするような流線型のボディができあがる。そんな形をイメージすることだろう。
だが、りゅうちゃんのヨットは違った。

まず先端がない。上空から見れば、先頭が四角の一辺になっている。その一辺にタイヤがいくつか付いていて、岸辺にぶつけても大丈夫なようになっている。というか、こうしておけば一人でも着岸できる。
俯瞰すれば、ふつうヨットは、ロケットみたいな形になっているものだ。ところが、このヨットは四角い。どこをどうぶつけても、傷まないつくりになっている。

いったいどうやったの?
と思って眺めると、上から見てもたしかに中心はヨットの形をしている。そのヨットの両サイドには50センチ幅ほどの足場がバウ(前方)からスターン(後方)へと平行に備わっている。たぶん、その両サイドの足場の下に、「キール」と呼ばれる船を安定されるボードがつけられていたのだと思う。この二本のキールが、船に絶対なる安定感を与えていた。少々の強風にもびくともしない、それでいて、加速もじつにいい。それに、真下に海を眺めつつ、昼寝だってできる。ヨットの前方部分には、両サイドの足場から網がはってあった。網の下は、ただただひたすら海!

船上に目をやると、マストの真下からすこし後ろの位置に、小さなちゃぶ台がある。舵は、なんと廃車にしたレトロな車のハンドル。コンパスは、「家にあった」木のお椀で覆われていた。
「知り合いに安くつくってもらった」というヨットは、とにかく、寄せ集めだった。いろんな部品がもらいもんか、安く譲ってもらったものばかり。
だけど、ひとつとして違和感を出していない。それどころか、この船に収まると、すべてがたまらなくいい味を出していた。
すごい・・・。
かけろまという神秘的な島の海上で、ぼくは心の底から思った。
これでいいのだ。
いや、これがいいのだ。

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あらゆる感覚がよみがえり、生き生きとし、体が喜びの悲鳴を上げた状態で、東京に戻ってきた。この感覚をずっと保ったまま仕事をしたいもんだ。
そんな考えがふとよぎったとき、いや、待てよ、と思った。
ミシマ社の日常にもよく似た光景がひろがっているんじゃないだろうか。

会社をつくってちょうど9カ月目に、ミシマ社に新しいチームが誕生した。
その名も、仕掛け屋チーム。
「とにかく、仕掛けろ!」という、なんともいい加減なミッションを背負い、(おそらく)日本で初となるチームが始動しだした。

その仕掛け屋チームをしきるのが、キムラ・モモコ。
とにかく、キムラは感性だけで動く。直感だけで生きる。
野生の血が全身を駆け巡っている。はじめて会った瞬間に、ぼくは感じた。
まさに、「野生」をかかげるミシマ社の模範的存在だ。事実、あの、イングランド代表フォワードにして、天性の得点感覚をもち、「悪童」の愛称で世界中のファンに愛されている「ルーニー」に例えられたほどだ(例えたのはぼくですが)。

そのキムラ。仕事のやり方も、じつに「野生流」だ。
ぼくも、たいていモノを捨てない人間だが、キムラはそのずっと先をゆく。
ある日、ぼくがコーヒーを買ってきて、その紙袋を丸めて捨てようとしたことがあった。そのとき突然、「お待ち!」と声がかかった。

おそるおそる振り向くや、ぼくの手から丸めかけた紙袋をとりあげたキムラは、手書きの「ミシマ社通信」の束をそこに入れて、紙袋の表面にミシマ社ロゴマークなんかを描いた。そうすると、いかにもそれらしいミシマ社通信入れが完成した。

人からいただいたお菓子箱はPOPやらパネルやら物置箱へと姿を変える。洋服を買うと服の間に挟みこまれている、薄いパラフィンのような紙(畳紙というらしい)は、POPの素材と化す。ある日、京都の鳩居堂で便箋を買ってきたことがあったのだが、気づけば、その便箋が包まれていた包装紙は、キムラのブックカバーとなっていた。コーヒーの紙コップは筆立てに・・・。
そんなふうに、ふつうならゴミにしかならないような、ありとあらゆるものがモノに「進化」を遂げる。
だから、何も捨てられない。

「もしかすると、この空き缶を仕掛け屋チームは使うかもしれない」
何かを捨てようとするたびに、ぼくの脳裏をこうした考えがよぎる。
もともとモノを捨てない性質だったけれど、輪をかけて、捨てない人となってしまった。

そんなこんなで、結果、ミシマ社には、よくわからないゴミみたいなものが溢れている。
資源の有効利用。なんて響きのいいことを言いたいわけではまったくない。
だって、それらがすべて使われるわけではないのだ。そのまま、忘れ去れてしまうこともある。というか、そのほうが多いようにも映る(ちがっていたら、ごめんなさい)。

けれど、この「いつか使うかもしれない、一見すると無駄でしかないもの」は、エネルギーなんだろうとぼくは思う。それを戦略的に、整理整頓した形で保存していないからこそ、エネルギーなんだろうと。
電気自動車のエネルギーが太陽であるように、すくなくともミシマ社にとって、会社を動かすエネルギーは、こうした「捨てなかったものたち」なのだろう。
東京にいると、ついつい、計画的に効率的に戦略的になりがちだが、不思議なことに、そうなればなるほど、エネルギーが失われていくような気がする。

おばばのぼろぼろ民宿も、りゅうちゃんのヨットも、なぜか気持ちいいものは、みんな「寄せ集め」なのだ。
そしておそらくミシマ社にも、こうした「かけろま」的なものがたくさんある。わざわざ、遠くを見なくてもちゃんとここにあったのだ。
そう、だから、自信をもってこう言っていけばいい。

寄せ集めですが、何か。

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三島邦弘(みしま・くにひろ)

1975年京都生まれ。1999年大学卒業後、PHP研究所に入社。単行本の編集者となる。2003年退社後、東欧などを旅する。同年10月、別の出版社で編集活動を再開。2006年10月株式会社ミシマ社を単身設立。「原点回帰」の出版社を標榜し、編集・営業・仕掛け屋などチームの枠を超え、「出版は全身運動である」という思いのもと、日々、奔走中。
「ミシマ社のblog」もがんばって書いてます。

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