ミシマ社の話

理想と現実、理論と実践、表と裏、S(出版社)とM(ミシマ社)......。「出版社をつくる!」、「ミシマ社のばあい」という二つの視点から、100年後のミシマ社メンバーに向けて、「ミシマ社が目指すもの」を語る。

第24回 一番病だった私

2010.07.20更新

ある日のミシマ社の光景。ちゃぶ台を囲んでお昼ご飯を食べながら――。

大学生M「もうすぐ、一年間の留学にでるんです」
ホシノ「へー」
ミシマ「そりゃいいね」
オオコシ「(なぜか悲しげに)オレも、もっと勉強しとけばな」
一同 「(笑)」

「もっと勉強しておけばよかった」
とはよく訊くセリフ。そういえば、ぼくも、子どもの頃からいろんな人たちからさんざん聞かされました。
たとえば大学生のころ、父の仕事の手伝いで、姫路の呉服小売店に行ったとき。店をずっと支えてきた老主(あるじ)が、ニコニコ顔で語ってくれたことがある。

「いろいろ好き放題やってきてね、この歳になって、つくづく思うことがね、もっと勉強しとけばよかったなぁって。ほんま、勉強だけはしといたほうがええ。おっちゃん、これだけは言えるわ」

その「おっちゃん」は、子どもの目から見ても、洒脱で、商売の才覚もあった人だったのだろう。それに、さまざまなことを気さくに話しかけてくれて、どちらかといえば好感をもっていた。その語る内容も、面白く納得いくことが多く、そのときも、勉強は若いうちにしておかねば、と思った。

この「おっちゃん」以外にも、いろんな人が同じ趣旨のことを語りかけてきたように思う。
そして、ずいぶんと年月がたった今も若者には同じことが言われていることを最近、知った。

先日、ある大学生からインタビューを受けたときだ。彼は取材先で、いつも「大学生へひとこと」と訊いているらしい。すると、「皆さん『勉強しなさい』って言います」。
なるほど。
で、いまぼく自身も、かつて多くの人がぼくに語ったように、「もっと勉強しておけばよかった」と思うに至った。
・・・かといえば、そんなことはない。

実は、まったくそうは思えないでいる。
なぜかといえば、「おっちゃん」の教えを守り、十分に勉強したから、ではない。
正反対だ。

根本的な問題として、ぼくには勉強は無理だった。あの頃、頭と体が完全に勉強を拒否していた。なにせ、活字がまったく頭に入ってこないのだ。本を読んでも、講義を受けても、何一つ理解できない。これまで理解できたようなことですら、頭に入ってこない。それで、もう学校でやることは何もない、と強固な確信をもってしまった。
とはいえ、ほかに何をやっていいか、わかっていたわけではない。それで学生時代ずっと迷走をつづけ、とても苦しい時期をおくった。
ただ確実なことは、それは、どうあがいても避けられなかった、ということだ。
 
忘れもしない、1983年6月3日・蔵前国技館――。
そう、IWGP優勝決定戦で、ハルク・ホーガンがアントニオ猪木を破って第一回チャンピオンになった試合だ。
当初、いったい何が起こったかわからなかった。小学2年生だったぼくは、テレビ画面の前で、文字通り釘付けになっていた。

リング下で、ホーガンがアックスボンバーを猪木の後頭部にはなつ。猪木は前のめりに転げ、そのまま額を鉄柱にぶつける。いち早くリングに戻ったホーガンが猪木を待つ。よろめきながらも、エプロンサイドに立つ猪木。その瞬間、ホーガンは反対側のロープへと走る。ロープの反動で勢いをつけたホーガンは、猪木に向かって突進。直角に折り曲げられた肘が猪木のあごを直撃、猪木はまっさかさまに場外へと落下。立ち上がらない猪木。リング上で「オレがウィナーだ」とアピールするホーガン。試合続行を望み、ホーガンの勝利を認めようとしない、新日本プロレスのセコンド陣。無理やりエプロンにあげたものの、猪木は舌を出したまま。仕方なく、試合終了を決める、レフリー・ミスター高橋。・・・ゴングが打ち鳴らされると同時に、ホーガンは飛び上がった。
そして、人差し指を高らかに天に向け、吼えた。

「イチバーン」

黒地に白抜きで「一番」と書いたリングパンツをはいたホーガンお得意のパフォーマンス。名実ともに「一番」であることを証明した瞬間だった。

テレビの前で釘付けになりながら、小学生のぼくは、「猪木、大丈夫・・・?」とホンキで心配していた。その一方で、新チャンピオン・ホーガンの虜にもなっていた。
だがあのときは、まだ知らなかったのだ。たしかに、ホーガンの必殺技が猪木のあごに命中したが、あの斧爆弾は同時にぼくたち少年の脳みそにも直撃していたことを。
あの瞬間、「イチバーン」の雄たけびとともに、一番病という厄介な呪いが少年たちの脳みそ深くに刻印された。

「イチバーン」――。とにかく、一番にならなければいけない。なんであれ、一番になりなさい。
ぼくと同年代の少年たちは、みな――視聴率が23.6%だったので、約4人に一人は――あの日以来、この超難題を抱えて生きていくはめになった。

絶対不可能といわれていた猪木越えだって果たした。君たちも、必ずイチバーンになれるんだよ。ホーガンはぼくたちに繰り返しくりかえし、脳みそのなかでそう語るのだった。
やがて、その呪いは、身体というコンピュータのなかにプログラミングされた。
新日本プロレスのリングを去り、久しく日本のマットに姿を現さなくなったホーガンだったが、もはや、一番病はホーガンなしでも十分に機能するようになっていた。

それから十数年のときをへて、大学に入ったとたん、学校でやることはない、と確信したのは先のとおり。
当時、その理由はわからなかったが、今になってわかる気がする。
それは、勉強という世界では、「イチバーン」になることができないと直感していたからではないだろうか。長年にわたって、「一番になること」をプログラミングされていた身体のなかのコンピュータが、反射的に「制御不能」を示したのだ。

機能不全に陥った身体のなかのコンピュータは、それからずっと迷走をつづけることになる。すくなくとも、ぼくの場合は、編集という仕事に出会うまで四年間、機能不全の状態がつづいた。
だがその間、ただ漫然と機能不全状態に甘んじていたわけではない。
その間に、一番病の呪いをとくことができたのだ。

それはひょんなことだった。

ある日、久かたぶりに小学校時代の友人と会ったときのことだ。
「くんぼう、まだホーガンやってんの?」
「やってへんで」
「イチバーン!(笑)」
「ハハハ、でも、あれはほんとすごかった」
「まあなぁ、けど、ホーガンもうやっとらへんやん」
「えっ?」
「一番パンツもはいとらへんで」
「・・・まじ?」

そういうことだったのだ。
なんと、ハルク・ホーガン御大自身、もうとっくの昔に一番パンツを脱ぎ捨てていた。
黒地に「一番」を白抜きしたパンツは黄色パンツに、イチバーンのパフォーマンスは片手を耳にあてる「何だって?」ポーズへと変わっていた。
もう誰も、時代も、社会も、何もかも、イチバーンなんて求めていなかった。もちろん、ホーガンでさえも。

もちろん、すぐにはプログラミングが解除されたわけではない。しかし、解除ボタンは確かに押され、時間の経過とともに、ぼくは一番病から解放されていった。
やがて完全回復した際、ぼくの心身は「イチバーン」なんて求めない、落ち着いたものへとすっかり変容していた。
そう。平和の色・黄色を愛し、頻繁に「何だって?」と人の話に耳を傾ける、そういう落ち着きある人間へと・・・。

あらためて今、こんな質問を受けたらどう答えるだろう。
「当時、一番病に罹患していなかったとしても、やっぱり勉強はしようと思わなかった?」
うーん、難しいところだが、やっぱり、勉強はしていなかった、と思う。

なぜなら、あの時、文字が頭に入ってこなかったのは、単にぼくの頭に問題があったからだと思うから。ほんとは一番病なんてそんなには関係ないのだ。
だから、先ほど「今になってわかる気がする」と言ったけれど、実際のところ、たんに「気がする」だけだったのかもしれない。

ところで、先日インタビューに来た学生さんは、ぼくのそうした本質を見抜いていたのだろうか。
「大学生へひとこと、と訊くと、皆さん『勉強しなさい』って言います」と語ったあと、こんなことを言っていた。
「三島さんだけです。勉強しろ、って言わなかったの。今日はすごく元気が出ました!」
なんだか元気の出方が間違っている気がしないでもないが、たんに「気がする」だけだろう。
そんな気がする。

お便りはこちら

みんなのミシマガジンはサポーターの皆さんと運営しております。

三島邦弘(みしま・くにひろ)

1975年京都生まれ。1999年大学卒業後、PHP研究所に入社。単行本の編集者となる。2003年退社後、東欧などを旅する。同年10月、別の出版社で編集活動を再開。2006年10月株式会社ミシマ社を単身設立。「原点回帰」の出版社を標榜し、編集・営業・仕掛け屋などチームの枠を超え、「出版は全身運動である」という思いのもと、日々、奔走中。
「ミシマ社のblog」もがんばって書いてます。

ミシマ社のblog
株式会社ミシマ社

バックナンバー