ミシマ社の話

理想と現実、理論と実践、表と裏、S(出版社)とM(ミシマ社)......。「出版社をつくる!」、「ミシマ社のばあい」という二つの視点から、100年後のミシマ社メンバーに向けて、「ミシマ社が目指すもの」を語る。

第33回 失ってはいけないもの

2011.05.23更新

ご存じの方もいらっしゃるかと思いますが、あらためてご報告です。
本年(2011年)4月より、ミシマ社は京都府城陽市にも、オフィスを構えました。
今後は、東京・自由が丘と並んで、二拠点体制で、出版活動に励むつもりです。
ひきつづき、どうぞよろしくお願い申し上げます。


さて。
どうして京都にオフィスをつくったのか。
そもそも、よりによってなぜ城陽市なのか?(城陽市のみなさま、すみません! こんな言い方をして・・・)
実際、当初から「なんで城陽やねん!」という突っ込みをさんざんいただいた。
お会いしたなかには、城陽出身の書き手の方もいたが、「ほんと何もないところですよ」と、半ば自嘲気味におっしゃった。
そのたびに、「はぁ、そうですか」とこちらも、思わずはにかむしかなかった。ただし、そのあとに「それで、いいんです」という一言をつけくわえるのを忘れずに。 
「なにもなくていいんです」
すると、「えっ、そうなんですか」と驚きの反応がほぼ必ずかえってきた。
「はい」
そう、なにもなくていいのだ。何もない、というのも、ひとつの重要な環境、と考えてしまえば。

だが、たいていのばあい、「そんなふう」には考えないようだ。
それはそうだろう。ロジカルに考えていけば、「そんなふう」にはなるわけがない。
「出版社にふさわしい立地的条件とは、畢竟つまり要するに(このフレーズは、たまたま今読んでいる田辺聖子さんの『私的生活』からの援用です)――情報が集まりやすい場所。人の行き来が多いところ。印刷所、書店といった関係会社が近くにあること――などであろう」

神保町は、上記要件をすべて満たしている。まさに出版の町。
京都でいえば、三条河原町界隈、あるいはいっそのこと、京大周辺が、上記条件に近いものをもっているだろう。
そう考えればたしかに、世界のIT産業を牽引しているベンチャー企業群も、シリコンバレーに集中している。
たしかに、同業者が集まっていれば、なにかと便利なのは間違いがない。
ちょっと困ったとき、「お隣さん」に訊けるからだ。
「最近、紙不足で困ってんのよねぇ」
「ちょうど、うちの倉庫に余ってるのあるから、回すよ」
「あら、助かるわぁ」
こんなふうに、もちつもたれつ、が成り立つのだ(シリコンバレーでこんな会話があるかどうかはわかりませんが)。

ちなみに、自由が丘オフィスの「お隣さん」は、80歳を超えるおばあさん。
先の地震のときも、揺れがあまりにひどいので、全員、家屋を飛び出し、路地で待機していたが、おばあさんはずっと家のなかにいた。
「大丈夫ですか?」と声をかけるぼくたち。
すると、ゆったりした声で「だいじょうぶよ~」。
「わたしがね、子どもの頃経験した地震のときは、立ってられなかったもの。今回は立ってられたでしょ」
と逆に、ぼくらのほうが「安心」させられたのだった。

閑話休題。
もう一歩ロジカル思考を進めれば、同じ場所に同業種が集中することには、メリットとデメリットのふたつが考えうる。
もちろんメリットは、「焼き鳥屋が三軒並ぶとうまい店が出てくる」というもの。「競合」によってイノベーションが起きやすくなり、結果的に質も上がるだろう、という考えだ。
デメリットは、競合意識がプラスに転化しないときに起きる。つまり、「横並び」に働くのだ。「横並び」意識は、往々にして、画一化を生むことにそのエネルギーを使いがちだ。

「だから」ミシマ社は、城陽にオフィスを置いたわけではない。
自由が丘に置いたわけでもない。
後づけとして、そういうふうに考えたことは確かではある。
「同じ場所で出版をしても、同じようなものしか生まれないだろうから」

そうは思っているのだが、自由が丘にしろ、城陽にしろ、出版の地でない場所に出版社を置いたのには、もっと根本的な理由がある。
その根本的理由を言うには、会社発祥の瞬間にまでさかのぼらなければいけない。

創業前にある出版社に勤めていた頃、毎日がとても息苦しかった。その息苦しさは、つきつめれば、作り手に自由度が確保されていない(と自分が感じている)ことに最大の原因があった。
他社からやってきた編集者に対して、もっとのびのびと働かせてくれたらいいのに。
と、こう書くとたんなるワガママな若者の抗弁にしか聞こえないが、いわくいい難い不自由さで、押しつぶされそうになっていた。
もうこれ以上、ここにいたら、自分が駄目になる。

そのギリギリのところにいた。
そうした日々を送っていたある日の夜中、「そうだ! 自分で出版社をつくったらいいんだ」と、突然思いついた(その経緯については、この連載のなかでも述べたとおりです)。その瞬間、全身から力が湧き上がってきた。
言い換えれば、自分を生かす最後の手段として「起業」があったのだ。
まさに窮余の一策。
その窮余とは、ほかならぬ、自分の感覚を守ることであった。

こうしてミシマ社は誕生した。

自分の感覚を守る、自分の感覚を生かす。
(これが創業の原点にある以上、その後、集まってきたメンバーも、必然、衝動的結果として入社している。気づいたら応募してた、メールを送っていた、そんなふうに)

そして、直感だけを頼りに、さして地の利があったわけでもない自由が丘にオフィスをもつことにした。
マンションの小さな一室を見たとき、「ここだ!」と感じたのだ。
理屈じゃなく、「いい」と思った。

城陽にオフィスをもった理由も同様である。
地震直後、特に原発の問題が言われた頃から、東京の空気が急変した。
いろんな感覚の扉がパタパタと閉じていく。閉じないと自分の感覚が内部からつぶれていってしまう。そんな空気だ。
 
そのときぼくが考えたのは、いったん東京を離れるほうがいいだろう、というものだった。
それは、何よりも「原点」を守るために。
感覚だけは失ってはいけない。
お金だとか、目に見えるものは、失っても、取り戻せる。 
だけど感覚だけは、とことん失ってしまってからでは、なかなか取り戻すことはできない。そうした恐怖心に近いものが、身にしみついていたからだ。
結局、たまたま親戚が城陽に一軒家がもっていることが、その日判明し、しかも貸してもらえそうだということがわかった。それでその日の夜に、急遽、「出発」となったわけだ(このドタバタについては、あらためていずれ)。
ともあれ、たまたま縁あって来ることになった城陽という町。
ここ以外に、関西でやることなんて考えられるわけもない。
なにせ、創業の原点と同じ理由で、飛び込んできた場所なのだ。

感覚という目に見えないものを最大限生かす場として、自由が丘があり、城陽がある。
ぼくたちにとって、そこにオフィスを置くそれ以上の理由はない。


その会社は、何をもっとも大切にしているか。
つきつめたとき、何か?
これだけは失ってはいけないものとは――何?

お金? 働きがい? 意義? 安定?
たとえば電力会社であれば「安定した電力供給」というものかもしれないし、たとえば都会から地方へ移住し農業のグループをおこした人たちのなかには、「第一次産業の復興」というミッションこそが、それに当たるかもしれない。
会社にとって百社百様だと思う。
ミシマ社の場合にかぎっていえば、それは迷うことなく、「感覚」だといえる。

一見、出版社にとって「何もない」土地に思えるところには、ちゃんと「目に見えない何か」がある。
きっと「原点回帰」の出版社にふさわしい何かが。
そう思っています。

本当かどうかは、どうぞ京都に行った際には、城陽へ行って確かめてみてください!
ほんとに何もないですけれど。

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三島邦弘(みしま・くにひろ)

1975年京都生まれ。1999年大学卒業後、PHP研究所に入社。単行本の編集者となる。2003年退社後、東欧などを旅する。同年10月、別の出版社で編集活動を再開。2006年10月株式会社ミシマ社を単身設立。「原点回帰」の出版社を標榜し、編集・営業・仕掛け屋などチームの枠を超え、「出版は全身運動である」という思いのもと、日々、奔走中。
「ミシマ社のblog」もがんばって書いてます。

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