ミシマ社の話

第42回 革命的な読書体験

2012.07.30更新

透明人間⇆再出発』の写真家・青山裕企さんと、造本装丁コンクール授賞式への道すがら、たまたま電子書籍の話になった。授賞式の会場が東京国際ブックフェアと同じだったので、「電子書籍」という文字がそこここでやたらと目についたためだろう。

「本づくりは、ほんとワクワクしますよね」と言ったあと、青山さんが面白いことを言い出した。
「けど、不思議なことに、アプリつくりませんか、とか電子の話になったとたん、全然ワクワクしないんですよね」
ああ、やっぱり・・・。
「ぼくもまったく同じです」。共感をこめて、「そうですよね」とうなずいた。
実際のところ、読んでいる中身は同じであれ、それをつくっているときの気持ちのワクワク度がまったく違うのだ。

読者の方々のなかには、電子「書籍」という名前に引きずられ、そのコンテンツ制作も、通常の本づくりと変わらぬ行為を想像する方も多いかもしれない。たしかに、活版印刷などの時代と違って、データ入稿が当たり前の昨今、ほとんどその制作工程は一緒である。データを入稿したのち、それが刷られるか、デジタルの読み物になるか、ただそれだけの違いにすぎない。

だが、「ただそれだけ」の違いが、作り手たちの気持ちには、「ずいぶん」な違いとなって表れる。
紙の本づくりが旅とすれば、電子書籍はあくまでビジネス(おかしなことに、動くお金の額は紙のほうがはるかに大きいのだけど)。

常々、編集者にはビジネスセンスが必要であっても、ビジネスパーソンであってはいけない、と思っているが、そういう意味でも、結局のところ電子は編集者心をくすぶらない。

「ですけどね」
と言って青山さんは、なにかをたくらむ悪戯好きな少年の顔をした。
「ぼくたちは紙で育ってきたからそうじゃないですか。けど」
(けど・・・)
「もしパラレルな世界がどこかにあって、そこでは紙がなく、最初から電子しかなかったとしたら、それでもぼくらはワクワクしてないんですかね」

なるほど。
この「もし」は面白い。
生まれたときから紙に触れているから、紙の本づくりにワクワクする。しかし、もとより紙に触れたことがなければ、むしろ電子のコンテンツづくりに心躍るのではないか――。

かつて、「電子書籍」というものが鳴り物入りで紹介されるとき、こんな文句が添えられることが少なくなかった。

「革命的な読書体験が始まる」
――グーテンベルクの発明以来、人類は大きな知的進化を遂げてきた。印刷という技術を手にしたことで、ヨーロッパでは宗教改革が起き、科学革命を促した。近代は、この技術をもってはじまりを迎えるといって過言ではないだろう。
あれから500年超――。ふたたび、人類はまったく新しい読書法を得ることになる。
たった一台、ノートサイズのタブレットを持つだけで、何千冊もの「本」(これを知的財産と言い換えてもよかろう)を世界中どこへでも持ち運ぶことができる。そこでは蔵書という概念すらなくなるにちがいない。もう、収納に困ることもなくなるってわけだ。しかも、知らない単語が出てくれば、たいそうな辞書を引きだすまでもなく、瞬時に調べることだってできる。これまで人間をしばってきた物理的制約(重かったり、空間を占領したり・・・まったく言い出せばきりがない)から、ついに解放されるのだ!
いいかえれば、さまざまな制約から解放され、人間はついに読書という行為においてすら、自由を手にする。
これを革命的な読書といわずして何がそうであろうか――。

言ってることはわかった。ところで、あんた誰? なんちゃってアメリカ人? 
そんな疑問とともに、上のような惹句を目にした人も多いのではなかろうか。
青山さんが提示した「もし」を聞いたとき、ぼくのなかでも、この「なんちゃって」君が登場していた。ただし、この彼が語る内容はこれまでとはちょっと違っていた。

「革命的な読書体験が始まる」
――デジタル・ブックが淘汰される!?
いや、これを否定的な言葉で語るのは適切ではあるまい。人類史上(と断言したい)、稀なる大進化を遂げようとしているのだから。
そう、これまで「なかった」ものをついに手にすることができたのだ(まったく夢のような話だ)。

その名も、KAMI。

奇しくも「神」様と同じ音をこれにつけたのは、わが同胞、ジャパニーズ・ピープルの面目躍如にほかならない。
いや、たしかにたしかに。
けっして触れることも見ることもかなわぬ「神」が、天孫降臨、わが人類のもとへ降り立ったようなものだ。

そこに文字を刷る。そして読む。
すると、ふしぎ不思議、まるで神社仏閣に参拝へ訪れたかのような感覚を得られるではないか。
事実、刷る者はそこに魂をこめるという。そしてその魂はKAMIという触れることのできる物体を通じて、読む者のうちに入り込んでくる。
こんな体験、空想の産物でしかあえなかったではないか。

そういう意味でも実に言いえて妙。
この物質、やはりカミと呼ぶしかない。
いずれにせよ、カミの本を読むという類の「読書」を体感した人類はいま、まさに革命をその内に起こしているのである。流れていく電子の文字を「追う」という読み方ではない、五感を揺さぶる読書体験。この進化系の読書はすなわち、人類そのものが一歩も二歩も進みうる可能性を包摂しているといえよう。

さあ、みなさん。
見て、触れて、匂って、感じて・・・革命的な読書体験を通じ、自分のなかに革命を起こそうではありませんか――。

もし電子しかない世界に生まれていたら・・・。
きっと人間は「KAMI」を発明していただろう。
青山さんの「もし」を聞いた瞬間からこんなことを考えていた。

ぼくたちはもう何百年も前から、革命的な読書体験を身体化しているのだ。

もちろん、本当かどうかはわからない。
けれど、人間はつまるところ「より便利」なほうへと流れていく生き物だろう。
とすれば、まちがいなく「より便利なもの」「機能性の高い」ものとしての紙を生み出していたにちがいない(かなり高い確率で当たっていると思う)。

そして同時に、人間は新しいものが好きな生き物でもある。
だからこそ、企業は新商品を生み出そうとし、事実、「新商品」から売れていく。
同様に、新しい存在である紙が、いっきに電子書籍を席巻する。なんてことも、そっちの世界では起こりえるかもしれない。ほんとの話。

そんなふうに考えると、現状、圧倒的に紙が好まれ、クリエイターたちをワクワクに誘うのも電子より紙なのは、すでに電子は「新しい」ものではないから、ではなかろうか。
たまたま商品になる順番が逆になっただけで、紙のほうが実際には新しい。

つまり、革命的読書体験をぼくたちはすでに身体化してしまっている。カラダになじみすぎてしまっているがために、それがいかに新しいか、普段は気づかないでいる。
それが「真相」なのかもしれない。

視点を変えて、「新しい」の意味を掘り下げてみよう。

人は、新しいものをなぜ好むのか。
この問いの答えのひとつは、「そこにより新鮮な生命(いのち)があるから」が妥当だろう。
とすれば、こうも言い替えられる。
「新しい」ものは、それに触れる者の生命(いのち)を新しくするもの――。

そういえば、革命の「革」という字は、「あらたまる」「あらためる」の意味を宿している。
つまり革命とは、何も既存勢力を覆すことを指すわけではなく、命をあたらしくするというのが本来的意味である。
これまで何度も使ってきた「革命的な読書」とは、事実、生命(いのち)をあたらしくする読書を指すのだ。

このような観点にたつとき、果たして、
紙か電子か、どちらがより「新しい」か。
どちらが、人をより生き生きとさせるか。
動物的な身体性をより高めるのはどちらか。

風雪に耐え、より人間の生命力を高めたものは、digitalかKAMIか。

答えはカミのみぞ知る。

お便りはこちら

みんなのミシマガジンはサポーターの皆さんと運営しております。

三島邦弘(みしま・くにひろ)

1975年京都生まれ。1999年大学卒業後、PHP研究所に入社。単行本の編集者となる。2003年退社後、東欧などを旅する。同年10月、別の出版社で編集活動を再開。2006年10月株式会社ミシマ社を単身設立。「原点回帰」の出版社を標榜し、編集・営業・仕掛け屋などチームの枠を超え、「出版は全身運動である」という思いのもと、日々、奔走中。
「ミシマ社のblog」もがんばって書いてます。

ミシマ社のblog
株式会社ミシマ社

バックナンバー