ミシマ社の話

第52回 メディアでありつづけるために 

2015.01.12更新

「今日から諸君を、紳士として扱う」
 湯川秀樹『旅人』の一コマである。湯川秀樹(当時、小川秀樹)がある人に言われ、のちのちまで覚えていた言葉がこれだ。父親のことを回想していると、ふと思い出したようだ。「父は、子供もまた一個の人格として認めようとしたのかもしれない」と書いている。
 では、湯川の父とも似ているというどのような人物に、どのような場面で言われたのだろうか。
 現代の感覚で考えれば、新社会人になる入社式などが思い浮かぶかもしれない。あるいは、せいぜい成人式だろうか。
 もちろんそのどちらでもない。13、14歳の時分、一中の入学式で校長先生が述べた言葉なのだった。
 紳士。いいかえれば、自立した一人の人間、と言えようか。
 自立という言葉はとかく誤解を招きやすい。つい、経済的自立を意味すると思わがちだ。けれど、この校長先生の発言からもわかるとおり、経済的自立は「紳士であること」の条件にも入らない。
 おそらく、こういうふうに言い換えられるのではないか、と思っている。
「自分の場をもっている一人の人間として接します」
 たとえ小さくてもいい。小さくても、自分の場がある。物理的な場ではない。どういう状況においても、自らが主体的に動くことのできる場。他者に与えれた場ではない。自らがつくったその場のなかにおいては、常に自由自在に動くことができる。
 そういう場である。

  *

 ことに編集者、出版人、メディアの人間と呼ばれるものは、自分の場をもたずして、その責務を果たすことなど不可能だろう。
 というのも、メディアとは字義通り、「媒介」でなければいけない。
 媒介であるということは、あるものとあるものをつなぐということである。けっしてつながることのない二者が、媒介をはさんで結びつく。「ある切実な企画」と「それを切実に欲する読者」との邂逅。メディアがかかわることで、その永遠に会うことがなかったかもしれない二者が引き合うのだ。

 もしメディア人を名乗る者(M)が、自らの場をもたないとしよう。そうして、AとBを結びつけている媒介であるかのように「見えている」とする。けれど、場をもたずして、媒介は不可能である。とすれば、そのNは、実はAなのである。AがMを装って、Bとつながろうとしているにすぎない。あってはいけないことである。
 たとえば、ある報道番組で、新車の紹介がある。T社、H社、N社、三社同時に、高級車を発売するという。各社のニューモデルの説明が一通りなされたあと、T社が開発した新機能の紹介が始まる。他車はどうなのだろうと思ってつづきを見る。が、待てど、H社とN社の新機能の紹介はない。そのままT社の新製品の詳細レポートだけで終わってしまった。それも大絶賛のうちに。それほどT社のものは優れているにちがいない。そう思ってしかり。しかし実際には、各社のモデルすべてが新機能を搭載していた。そしていずれも甲乙つけがたいレベルであることが、専門家からは評されていた。
 なんのことはない。その報道番組のスポンサーはT社であった。スポンサーはあくまで番組をサポートするのであり、内容には干渉してはいけない。それが大原則である。そうでなければ、メディアは公共のものでありえない。つまりは、その番組はメディアであることをやめ、T社の宣伝部になりさがっていたのだ。
 まあしかし、そういうことは存外多いように感じている。

   *

 紳士であることは、自分の場をもつ人間である。
 最初にこう述べたが、自分の場をもつ人間であるということは、公共に開かれた存在であるともいえる。何かと何かを結ぶ媒介であるということは、公共でないと不可能であるように。
 しかし、公共というのはいったいどういうものだろうか。子どもの頃から頻繁に耳にする言葉であるが、これほど、実態を把握しにくいものもあまりない。さんざんこれまで、公共という言葉を使っておいて言うのもなんだが。

 だが、ここにきて手がかりのようなものを見つけた。
 それは、同化という言葉である。
 私が5年近くやっている合気道では、よく、「身体を対立的に使ってはいけない。同化的に使うように」と教えられる。
 字面だけ追えば簡単そうに思えるが、実践するのは案外むずかしい。
 仮に、あなたがある組織に属しているとする。その組織の考えとあなたの考えが一致しない。そのとき、どっちがより優れた考えであるか、と比べだすと、たいへんなことになる。その思考をつづけるかぎり、永遠に優劣を競うことになり、どちらかの、あるいは両者の根源的力を失わせることになる。つまりは、それぞれの「場」を小さくしていくことになりかねない。互いの「場」を広げあってこその関係でなければいけないのに。
 対立的に身体や思考を使っていけば、自分の場が広がっていくことはけっしてない。そうして、自由自在に動くことのできる活動範囲は、窮屈なままにありつづけるだろう。
 ではどうすれば自分の場は広がっていくのか。いいかえれば、自分の公共性を拡大していくことができるのか。
 おそらく、大きなものと同化するということだ。ただし、意見を同じくするという意味ではない。メディアの例で見たように、Aと同じ意見をそのままに述べるだけでは、Aにすぎない。それは同化でもなんでもない。鈍化である。感覚を鈍くすることで、より大きなものとの同化を拒んでいるのだ。

 同化は、鈍化の対極にあるものだと思う。
 というのは、くりかえすが同化とは意見を同じくするということではない。たとえば、自然の木々と同化するというとき、感覚レベルで一緒になっていくということだろう。大きなものとは、そういう大自然をさす。いうまでもなく、権力やお金の出所であったりはしない。
 そもそも、どんな自然も、意見の共有を強制してきたりしない。
 ただこちらが感覚を透明にしていくことで、自分をまっ白にすることで、そこに溶け込んでいくことができる。
 その感覚を対立的に振舞おうとする直前に一瞬であれ、もつ。
 そうすれば、自分の場が自分の場でありながら、開かれたものにもなっていく。

  *

 メディアの真価が問われる時代になっている。その感を、年々強くしている。
 真に大きなものと、同化できるよう感覚を透明にしていきたい。
 そのために日々はあると思っている。
 習慣こそが強くしなやかな感覚を導く。

 本年もよろしくお願い申しあげます。
 

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三島邦弘(みしま・くにひろ)

1975年京都生まれ。1999年大学卒業後、PHP研究所に入社。単行本の編集者となる。2003年退社後、東欧などを旅する。同年10月、別の出版社で編集活動を再開。2006年10月株式会社ミシマ社を単身設立。「原点回帰」の出版社を標榜し、編集・営業・仕掛け屋などチームの枠を超え、「出版は全身運動である」という思いのもと、日々、奔走中。
「ミシマ社のblog」もがんばって書いてます。

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