K氏の大阪ブンガク論

第1回 ついに出たぁ!「K氏」の大阪ブンガク論。(1)

2016.08.01更新

 K氏がとあるWeb連載で「てっちり」のことを書いたら、いきなりの書きだし部分で「てっちり(=ふぐ鍋)」というふうに(カッコ)付けさせてくれ、と編集担当からメールがあった。
 てっちりという大阪特有の鍋料理は、それを日常的に食べているエリアや職業などのある社会的属性の集団があって、てっちりを滅多に食べない人は、そういう人らと鍋を囲むときは、かれらに「鍋奉行」を任せる。そういうことになっているのだ。
 つまりてっちりとは、どういう鍋料理なのか一番深く知る経験者がリーダーになってしかるべきで、そこに「ふぐ入りの寄せ鍋」と「てっちり」の違いがある、みたいな内容だった。

 これはグルメレベルの話ではなく、人と人が会食する際の「街場の倫理学」のようなものである。大阪の街においての「食べることのおもしろさや深さ」を顕彰しようとするK氏は、いつも皿の上の料理や食材や調理法よりも、そういうややこしいことを言うたり書いたりする癖がある。というよりそれを飯の種にしている節があるのだ。
 原稿を送ると、そういうことはよく分かるのだが、うちのサイトは日本最大級のサイトで、上方以外の人間が読むのが大多数だ。だから(=ふぐ鍋)と入れさせてほしい。
 そういうことであるが、K氏にとってはこれはやはりやりきれない。なんとなればその原稿の中ほどには、こんな経験を書いていたからだ。


 一度、若い秀才の女性編集者ほかとてっちりを食べに行ったことがある。いきなりふぐの切り身と、豆腐や椎茸や白菜をどばどばと一緒に入れた。その時、「まあ経験上、オレが鍋奉行せなあかん」と思っていたので「ちょっと豆腐や野菜は待ってくれ」と注意したら、逆ギレ気味に「鍋は野菜がおいしいのよ」と言われた。

 「こいつ何にもわかってへんな」と絶望的な気分になったわたしは、仲のいい男ばかりだったら「これ、ちゃんこ鍋ちゃうで」と言うてたところなのに、なぜか「シュン」と悲しくなってしまった。
 鍋は「食べる」ではなく、「鍋をする」なのだ。とくにふぐやハモ、しゃぶしゃぶといったある種の鍋には、それを「する際」のコード、つまり「やり方」があるのだ。
そのやり方はあまりグルメの本にはあまり書いてなくて、また地域やその人の「鍋の育ち」や、わたしのような「イラチな」性格のメンバーその他いろいろがあって、一般的な正解はない。その日その時の鍋の諸先輩方、先人に教わるあるいは学習し、積み重ねるしかないのだ。

 大阪の街場においてのあれこれは、食べることにおいても大阪〜関西言語的なコミュニケーションが、物事の基底に根を張っている。そういうことがわかってくると、ぐんと街的生活が楽しくなってくる。「社会システムはコミュニケーションからなる。社会は複数の人間の集合体として成立するのではない。人間は社会システムの構成要素ではなく、その環境である」からだとK氏は結論めいた言い方をするが、これはだれかのパクリまる出しである。

 K氏はだんじり祭で有名な旧い街で生まれて育った。その町は城下町らしく、雑多な商売人や職人が一つの町的な固まりをつくっていた。
 K氏の町は、飲食店が喫茶店とてっちり屋が各1軒だけで、ほかはみな物販をしている店舗のアーケードのある商店街と、商店街の裏が大工や左官、彼らの道具を扱う金物屋や目立て屋など職人が住む裏通り。そして鮨屋、うどん屋、お好み焼き屋、定食屋、鰻屋が並ぶ大通りがタテの道だった。大通りは昭和に入って拡げたから「昭和大通」やという「そのままやんけ」の名前がついていて、2階3階では鍋の宴会も出来た「うどんの部」「寿司の部」「洋食の部」とメニューに書き分けてある3階建ての[みなと食堂]、パチンコ店の[いすゞホール]だけが大きな建物で、あとは2階建ての大きな長屋の、1階が立ち呑みもやっている酒屋のような店舗が並んでいた。 

 歩いてすぐの距離に2軒の風呂屋があった。そのころ大阪では「銭湯」という言い方はなくて「風呂屋」だった。余談だが70年代に流行った南こうせつとかぐや姫の『神田川』に、「赤い手拭いマフラーにして/二人で行った横丁の風呂屋」という歌詞があるが、作詞をした喜多條忠は大阪・天満生まれで東京に行って作詞家になった人だ。
 その2軒の風呂屋の片一方の[なみちゃん湯]は熱い風呂で、小学生だったK氏は普段、家族みんなが行っていた[清水湯]がたまに休みのときは、[なみちゃん湯]に行っていたのだが、何回行っても湯船になかなか浸かれなかった。
 その湯が熱い方の銭湯は、職人たちや土工向けの銭湯だった。ある日奇跡のように、その風呂屋の行きにひとり、帰りに一人というふうに、同級生ふたりを見かけて「なるほどそういう風呂屋か」と思った。その娘二人はどちらもブリキ屋の娘で(同級生120人中ブリキ屋はその2軒だけ)どちらも別嬪で勉強も良く出来た。
 それからK氏はたまに[なみちゃん湯]に行くようになった。あわよくば番台でお金を払うときなど、そのブリキ屋の娘を見てやろうと思ったからだ。K氏はやっぱりガキの頃からあほである。

 もう半世紀に近い前の話で、その後風呂屋も職人の家も食堂もパチンコ屋もことごとく無くなってしまったが、その風呂屋の湯の熱さは、たまによその街の銭湯に行った際に思い出したりする。
 そういう地域環境では、社会的属性や世代も違う人々が普通に混じっているので、自然とコミュニケーション力が磨かれる。その際に中心となる「言語運用」は、小学校で習う国語だけでは「通用」しない。

 一番面白かったのが中学に進んだときだ。中学校は、商売人と職人の家の子どもがほとんどだったK氏が通っていた「中央小学校」と、浜地区の「浜小学校」とが同じ校区だった (しかしながらこの小学校名もそのまんまやんけ)。漁師の網元や乗り組み漁撈者の店子(たなこ)、沖仲士や馬力曳きといった港湾労働者などの息子、娘たちと一緒になる。かれら相手の事務所や博打場が家である度胸千両系男稼業の子弟もいて、かれらは風貌から歩き方まで大人びていた。
 教室で飛び交う言葉やカルチャーが、小学校よりもぐっと多様になった。話すコトバのみならず、だんじりの曳き方や鳴物の演奏もかれらはまったく違っていた。もっともかれらの地区だけを見ても町ごとにそれが違っていたのだから、「多様性」などといった耳障りの良い言葉では言い表すことが出来ない。
 とにかく血の気の多い土地柄だから、当然そこらじゅうで喧嘩が絶えない。K氏は小学校の頃から声がデカくてよく喋り、おまけに体が大きくて「目立っていた」から、よく浜地区のヤツからお呼びがかかった。
 そんななかで「場を収める」ことをK氏は学んだという。紛糾に至らずに何とか折り合いをつける。あるいは逆にわざと人を怒らせたり混乱させたりする。そんなコミュニケーションのありようについて「豊かな土地柄だった」と今も思っている。

 その後、K氏は府立高校に進学する。そこは学区で一番の所謂「ナンバースクール」だった。その高校で同級生にサラリーマンや公務員、すなわち「勤め人」の子弟が多いことを知った。ここらへんがK氏のおかしいとこで、「そうか、世の中で自営業の家は少数派やったんか」と、はたと気づくのだ。
 また初めて「標準語」を話す先生の授業を受けた。「やっぱし中学校と違ごて、かしこい高校はちゃうな」とK氏は思ったが、同時に「愛嬌がないおもろない喋り方やから授業は眠たい」のだった。
 K氏の中学校では「おもろい」かどうかが常に問われていた。喧嘩の最中でも授業中でも「おもろいこと」を言うたもんが勝ち、すなわち「おもろく表現する」ことが人を「納得」させることにほかならない。そんな口語的な社会性だった。
 それは誰かと一緒に食事をするときにも端的に表れる。相手と「どの店で何を食べるか」という際にも「会話」のやり取りをする。それは単純な応酬ではなく、双方の「納得」につながらなくてはならない。「納得」のためには「理由」が要る。サボって「喫茶店へ行かないか?」ではなくて「ちょっと、喉乾いてへんか?」である。

 K氏がだれかと一緒にすき焼きの鍋を囲んだとする。K氏は先に砂糖と醤油だけで肉だけを食べたいのだけれど、そのたまらんコッテリ感が頭にありありと浮かんでいてすでに「おいしい口」になっているのに、相手ははじめから野菜も豆腐もしらたきも入れようとする。
普通はそこで「話し合い」が始まるのだが、K氏はこと食い物に関しては、簡単に合意するような自省心を持ち合わせていない。だから相手に対して何とかやり込めたり誤魔化したりしてそれを通そうとする。
 が、うっかり「ちょっと待たんかい。野菜は後じゃ」なんてぴしゃりと言ってしまうと、議論(ときには喧嘩も)につながってしまって、それこそ食事どころではなくなってしまう。そういう「大切なこと」をすでに中学校で学んでいる。
 「なあ大阪の"すき『焼き』"にしょうな、東京の"牛鍋"と違ごて」とやんわり言ったり、「わたし"鍋奉行"しますよって、そちらは"町(待ち)娘"でいって下さい」などと言う。双方、「納得」に至るための「理由」や「アイデア」を発話にさし込んで、「おもろく」言わないとあかんのだ。

 実際、K氏の中学校では授業中でも、皆が「何かおもろいことを言うたろう」といつも狙っていた。
 英語の授業中に「"ぼくらは生徒です"、と言うてみい」と先生が同級生の一人を指名する。I am a student.がWe are students.となる複数形の変化を教えるがためだったのだが、当てられたK氏のツレはまるで意に介さず、「ぼくらは生徒です」と日本語で平然と返す。
 「はいセンセイ」みたいな感じで直立して、真っ直ぐ大きな声で返す。教室中は大笑いだ。「おまえはアホか!もうええわ(笑)」とカンカンに怒りながらあきれて最後は笑うしかない先生を尻目に、本人はしてやったりの顔をしている。毎日がこんな調子だった。


(つづく)

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江 弘毅(こう・ひろき)

1958年岸和田市生まれ。神戸大学農学部卒。
1989年京阪神エルマガジン社にて『Meets Regional』誌をたちあげ、12年間編集長を務める。
2006年に編集集団140Bを大阪・中之島に設立、現在取締役編集部長。
著書に『だんじり若頭日記』(晶文社)、『「街的」ということ』(講談社現代新書)、『「うまいもん屋」からの大阪論』(NHK出版新書)、『有次と庖丁』(新潮社)、『飲み食い世界一の大阪〜そして神戸。なのにあなたは京都へゆくの〜』『K氏の遠吠え 誰も言わへんから言うときます。』(以上、ミシマ社)など。近著に『濃い味、うす味、街のあじ。』(140B)がある。

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