K氏の大阪ブンガク論

第9回 『細雪』ーー谷崎の「食」の書きっぷり(1)

2017.03.28更新

 久しぶりに『細雪』を通読したK氏は、「これはやっぱりグルメ小説やんか!」と感嘆した。
 大正末期の関東大震災の後、東京から関西に移り住んだ谷崎は、京都や大阪、神戸、阪神間の名店に行きまくっていた。行って食べた店のネタを自分の作品のなかで語ったり採り入れたりするだけでなく、大阪・堂島や京都・寺町ほかにある老舗バーの[サンボア]や、神戸トアロードの洋食の名店[ハイウエイ]を命名したりもしていた。
 谷崎のゆかりの店をめぐる雑誌の特集やWebサイトも多い。

 もともと京阪神の雑誌編集者であり、いろんなメディアに地元の街場の原稿も喜んで書くK氏は、よく谷崎の本をめくったりするのだが、それは「えーと、ここらへんにあったんちゃうかな」みたいな文献引用のための参照である。

 が、今回珍しく900ページを超える大作の『細雪』を前から順番に最後まで一気読みしたK氏は、まず谷崎の異常なばかりの京都や大阪、神戸の飲食店や旅館、ホテル等々についての「食」の書きっぷりに、「何ちゅう作家さんや」と改めて驚くのであった。 
 とくに大阪や神戸で出回る「明石鯛」についての記述は、東京出身の谷崎がそのうまさに出会って余程舌を巻いたらしく、すさまじいものがある。

 まず上巻十九。主人公・幸子が「大阪船場のどんなお嬢なのか」という人となりを表現するのに、いきなり鯛の話が出てくる。そういうネタの引っぱり方はあまり類を見ない。
 ちなみに幸子は谷崎の三人目妻・谷崎松子がモデルといわれている。

 幸子は昔、貞之助と新婚旅行へ行った時に、箱根の旅館で食い物の好き嫌いの話が出、魚では何が一番好きかと聞かれたので、「鯛やわ」と答えて貞之助におかしがられたことがあった。貞之助が笑ったのは、鯛とはあまり月並み過ぎるからであったが、しかし彼女の説によると、形から云っても、味から云っても、鯛こそは最も日本的なる魚であり、鯛を好かない日本人は日本人らしくないのであった。彼女のそういう心の中には、自分の生まれた上方こそは、日本で鯛の最も美味な地方、(中略)
 鯛でも明石鯛でなければ旨がらない幸子は、花も京都の花でなければ見たような気がしないのであった。(p.148)


 K氏は「いきなり"明石鯛でなければ"て相当やなあ」と言いつつ、「与謝野晶子さんもそうやった。こと鯛に関してはすごい執着や」と思い出す。それで嵐山光三郎さんの『文人悪食』(新潮社文庫)をめくりはじめる。
 あったあった125ページや。

 晶子は堺の老舗菓子商[駿河屋]出身だ。[駿河屋]は元和年間に徳川頼宣が御三家として紀伊に転封された際の御用菓子司だ。
 その[駿河屋]の分家である実家は代々食道楽の家柄で、大阪より魚が新鮮でうまい堺港に移り住んだ。叔父に[五郎鯛]という魚問屋があって、晶子は三歳ぐらいのとき、そこに預けられたことがあったこともあって、魚には大変うるさかった。
 上京して二十二歳の時与謝野鉄幹と結婚した晶子は、僧侶の息子だった鉄幹の家の質素な食事に驚き、12人の子どもを産み育てた。実家からの嫁入り道具を質に入れ、家族の米を買うなど相当の貧乏をしたらしい。

 晩年のことだが、長男光の妻迪子夫人が小鯛を買ってきて煮つけて出すと「私が育った堺は明石鯛というのが食べられ、目の下何寸といって買った。東京でいう小鯛は鯛ではない。鯛というものは少なくとも目の下四、五寸はあるものです」と言った。
 他の好物は、ごま豆腐、ゆり根、そら豆、蒸しずし、すっぽん料理だった。あゆの干物をもらうと「あゆの甘露煮を作ってくれ」と注文し、できあがった甘露煮を食べ「まあまあです」と批評した。(『好物あれこれ』「文人悪食」p.133)


 というふうに、このあたりの鯛に対してのメンタリティすなわち「喰い意地の張り方」が表れる台詞は、大阪出身の「良衆(ええし)の娘」ならではだ。
 食べ物に対して、鼻っぱしが強く、はっきり物を言うのは、常日頃から外食に慣れ親しんでいることからの「おいしいもの」へ対しての審美眼、つまり自分の「舌の自信」に担保されているからだ。

 「ここもすごいことになってるで」とK氏は『細雪』に戻って中巻三十一を開く。なんと1章使って、神戸・生田前の江戸前鮨の[与平]を舞台とした蒔岡家のグルメぶりに割かれている。

 貞之助たちは海岸通から生田前まで歩いて、今朝席を申し込んでおいた与平の暖簾をくぐった。(p.508)


 この鮨屋の親父は明治時代に有名だった東京・両国の名店[与兵衛]で修業した男が、鮨そのものは昔の両国の[与兵衛]とは少し違って以下引用のように上方ハイブリッドなものだった。
 K氏によるとこのあたりが「大阪のみならず神戸もエエとこ知ってるなあ」である。
 ちなみここに登場する[与平]は、モデルとなっている神戸の鮨屋がある。[又平]という名前で、今も二代目があとを継いで盛況中だとのことだ。

 親爺は東京で修業したものの、生れは神戸の人間なので、握り鮨ではあるけれども、彼の握るのは上方趣味のすこぶる顕著なものであった。たとえば酢は東京流の黄色いのを使わないで、白いのを使った。醤油も、東京人は決して使わない関西の溜を使い、蝦、烏賊、鮑等の鮨には食塩をふりかけて食べるようにすすめた。

 彼の握るものは、鱧、河豚、赤魚(あこう)、つばす、(中略)
鮪は虐待してあまり用いず、小鰭、はしら、青柳、玉子焼等は全く店頭に影を見せなかった。

 蝦と鮑は必ず生きて動いているものを眼の前で料理して握り、

 種は日によっていろいろだけれども、鯛と蝦とは最も自慢で、どんな時でも缺かしたことはなく、いつも真っ先に握りたがるのは鯛であった。トロはないか、などという不心得な質問を発するお客は、決して歓迎されなかった。

 取り分け鯛の好きな幸子が、妙子にここを紹介されてから、たちまちこの鮨に魅了されて常連の一人になったのは当然であるが、実は雪子も、幸子に劣らないくらいこの鮨には誘惑を感じていた。少し大袈裟に云うならば、彼女を東京から関西の方へ惹き寄せる数々の牽引力の中に、この鮨もはいっていたと云えるかも知れない。彼女がいつも東京に在って思いを関西の空に馳せる時、第一に念頭に浮かぶのは蘆屋の家のことであるのは云うまでもないが、どこか頭の隅の方に、折々はこの店の様子や、親爺の風貌や、彼の庖丁の下で威勢よく跳ね返る明石鯛や車海老のピチピチした姿も浮かんだ。彼女はどちらかと云えば洋食党で、鮨は格別好きというほどではないのだけれども、東京に二た月三月もいて、赤身の刺身ばかり食べさせられることが続くと、あの明石鯛の味が舌の先に想い出されて来、あの、切り口が青貝のように底光りする白い美しい肉の色が眼の前にちらついて来て、それが奇妙にも、阪急沿線の明るい景色や、蘆屋の姉や姪などの面影と一つもののように見え出すのであった。そして、貞之助ふ雨府も、雪子の関西における楽しみの一つがこの鮨にあることを察していて、大概彼女の滞在中に一二度はここへ誘うのであるが、貞之助はそんな時に、幸子と雪子の席の間に自分の席を占めるようにして、時々、目立たぬように、妻と二人の義妹たちへそっと杯を廻してやるのであった。


 ここの引用はおおよそ文庫1ページ分。「谷崎にかかると明石鯛のことだけで、改行もなにもまったくないねんなあ」とK氏はほとんどあきれている。

 貞之助たちは海岸通から生田前まで歩いて、今朝席を申し込んでおいた与平の暖簾をくぐった。


 から始まるこの鮨屋・与平でのシーンは、雪子が動いてるのが気味が悪いとして車海老の「おどり鮨」が躍らなくなったのを確かめてから箸をとるまで、中巻三十のすべて9ページ分を割く。

「その動いてるのんが値打ちやがな」
「早よ食べなさい、食べたかて化けて出えへんが」
「車海老のお化けなんか、出たかて恐いことあれしまへんで」

 と食べるようにせかす、もう30〜40代堂々たる大年増であるはずの三姉妹の一番上の入り婿男ひとり、貞之助の台詞のやりとりもとてもとても大阪らしい。

 またこんなシーンもある。
 他所の鯛がいつも食べている極上の明石鯛ではなく、「まずい」と貶すところだ。「この幸子という人は、鯛ひとつでなかなか飽きさせまへんな」とK氏は苦笑いしている。
 岐阜の「千万長者」の沢崎と妹雪子の見合いの席である。(下巻五)

 今日は手料理というけれども、膳のうえの色どりは、大垣あたりの仕出し屋から取り寄せたらしいものが大部分を占めていた。幸子は実は、暑い時分のことではあり、こういう風な生物(なまもの)の多い、しかも田舎の割烹店で作るお定まりの会席料理などよりは、この家の台所で拵える新鮮な蔬菜の煮付けの方が食べたかったのであるが、試みに鯛の刺身に箸を着けてみると、果して口の中でぐにゃりとなるように身が柔らかい。鯛について特別に神経質な彼女は、慌ててそれを一杯の酒と一緒に飲み下して、それきりしばらく箸を置いた。見渡したところ、彼女の食慾をそそるものは若鮎の塩焼だけであるが、これはさっき、未亡人が礼を云っていたところから察すると、沢崎が氷詰めにして土産に持ってきたものを、この家で焼いて出したので、仕出し屋の料理とは違うらしい。
「雪子ちゃん、鮎をいただきなさいな」(p.611)


 「かなんなあ」とK氏は唸る。地方の料理に対してのむき出しの「食における大阪帝国主義」である。また書き方も徹底的に「女性的で」「いけずで」あるところに、「こら正真正銘のグルメやなあ」とK氏は加えてあきれるのである。

(つづく)

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江 弘毅(こう・ひろき)

1958年岸和田市生まれ。神戸大学農学部卒。
1989年京阪神エルマガジン社にて『Meets Regional』誌をたちあげ、12年間編集長を務める。
2006年に編集集団140Bを大阪・中之島に設立、現在取締役編集部長。
著書に『だんじり若頭日記』(晶文社)、『「街的」ということ』(講談社現代新書)、『「うまいもん屋」からの大阪論』(NHK出版新書)、『有次と庖丁』(新潮社)、『飲み食い世界一の大阪〜そして神戸。なのにあなたは京都へゆくの〜』『K氏の遠吠え 誰も言わへんから言うときます。』(以上、ミシマ社)など。近著に『濃い味、うす味、街のあじ。』(140B)がある。

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