似合わない服 ミルコの六本木日記リターンズ

第7回 新国立美術館

2017.08.21更新

2015年9月〜2016年2月までミシマガで連載されていた、「5年後、」と本連載に、大幅に加筆・修正した書籍『似合わない服』が、8月20日に発刊になりました!!


 私が六本木に住んでいた頃、新国立美術館が出来た。
 しかし当時、足を踏み入れたことはなかった。
 出版社在職中には目の前の仕事を追いかけるのがせいいっぱいで、それ以外の人の作品を観る気が起こらなかった。
 日々仕事関係のなかで招待を受けるものに顔を出すだけで、じゅうぶんいろんなものをいろんな場所で観ることができたが、なぜか新国立美術館には縁がなかった。家から近いのに。そして道路を挟んで反対側には撮影スタジオがあり、グラビアや表紙撮影のためにしょっちゅう乃木坂には足を運んでいたのに、である。

 このたびあの場所で、「ミュシャ展」をやっていることは気になっていた。
 90年代の半ばに小説家のオガワさんとチェコ(プラハ)とオーストリア(ウイーン)に行ったことがある(当時のことは『凍りついた香り』(幻冬舎文庫)という小説になった)。そのときにミュシャの主な作品は観た。いや、観たと思い込んでいた。というのは私がオガワさんと観たのは、ミュシャが若いころにパリで描いたものだった。ミュシャが50歳で故郷に帰り、そこから15年かけて「スラブ叙事詩」を描いたことは今回知った。
 ミュシャが都会での華やかな人間関係やキャリアと決別して、田舎に引きこもってどんな仕事をしたのか。また、私は子どもの頃から吹奏楽をやっていたため、「スラブ」にもことさら興味を惹かれる。
 お金もかからず長時間飛行機に乗ることもなく、この日本でそれを観ることができるなんてありがたい。
 ちょうどロシア人の友だち・ターニャから連絡があったので、「ミュシャ展」に行かない?と誘ってみると、すぐにハラショウということになった。

 地下鉄を乃木坂駅で降りるともう長蛇の列ができていたのにはおどろいた。きけば入場まで二時間待ちだという。
 そこで入場券を販売していたが、チケットは買わずにひとまず待ち合わせ場所のカフェに向かった。
 人の波を掻き分けて、2階へ。
 エスカレーターを上がりながら、入場口の様子を見られたが、ぎっしり人が詰まっている。これじゃあ、中に入れたとしてもギュウギュウ人にもまれながら絵を観ることになるなぁ、美術はガランとした空間で観たいものだ・・・とため息をついた。
 ミュシャを観たい人がこんなにたくさん日本にいるなんて。
 この人たちは全員ミュシャをホントに観たいのだろうかと訝りながら人波を脱出すると、カフェには存外にスッと入れた。
 サーモンサンドを齧ってターニャを待つこと30分。
 以前私は待つことが苦手だったが、いまは平気である。気候の厳しい土地に生きるロシア人は気ままだ。会えるときは会える。会えないときは会えない。

 短く切りたての金髪をなびかせて、ターニャが現れた。
 「コンニチワ、ゲンキ~?!」と立ったままハグ。
 そして、椅子に腰かけるやいなや、
 「ミルコサン、ホン、カケタ?」と訊かれた。
 私の仕事を、気にかけてくれているのである。
 「いや~こんど新しいのが、やっと出ることになってねぇ」
 「ドンナホン?」
 「どんな本?・・・って、うーん・・・がんの話がなんだけど、がんの話じゃないような。なんだろう・・・心と体の話かなぁ?」
 「フーン・・・」
 どんな本かを自分の口で言うのってむずかしいもんだと、気がついた。
 「がん、だけじゃなく病気っていうのはさあ、たいてい<元(もと)の私>がわからなくなっている状態なんだよね」
 「モトノワタシ? ドコニウマレタカ、トカ?」
 「ダーダー(そうそう)、どこに生まれたか、どんな子どもだったか、何が好きだったか、あと、パパとママのこととか家族、ね」
 「フフン」
 「<元の私>を忘れることを、細胞がいやがるんだよ。アタマで考えることや、心で思うことより、体のほうが先を行っているんだね。私の場合も、会社を辞めたいと思ったときには、すでに具合が悪かったから・・・」
 「ソウ・・・」
 そう、それは地球に住む私たちがモタモタして問題を先送りにしているまに、災害が起こることに似ている。何が悪いって、自然(自分の細胞)を怒らせてはいけないのだ、ということを言いたかった。
 ヨガのインストラクターをやっているターニャは、心と体の専門家でもある。
 私の話を興味津々で聞いてくれたあと、こう言った。
 「モトノワタシ」を忘れないためにはどうすればいい?

 戦前には帝国陸軍の連隊のいた場所で、私たちはケーキを食べていた。
 いくら耳をすませても、軍靴の音は聞こえない。
 あったのに、ない。みんな忘れられている。
 目をこらしても、灰色の鉄柱とコンクリート越しに、薄く緑が広がるだけだった。

 2階にあるカフェからは、いっこうに減らない、階下の列が見降ろせた。
 「どうする? いまからあの列に、並ぶ・・・?」
 人込みの向こう側で、入口に展示されているミュシャの作品が垣間見える。
 作家に同行取材する編集者として旅した東欧。当時の空気が私のほうへ、ほんの少し流れてきた。

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山口ミルコ(やまぐち・みるこ)

1965年東京都生まれ。出版社で20年にわたり、さまざまな本をつくる。数々のベストセラーを世に送り出した末、2009年3月に退社。闘病を経て作家活動に入る。著書に『毛のない生活』(ミシマ社)、『毛の力 ロシア・ファーロードをゆく』(小学館)がある。

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