おせっかい宣言

第8回 供養

2015.03.04更新

 連れ合いの叔父は、71歳で、沖縄は嘉手納で亡くなった。沖縄の人、というわけではない。東京生まれの東京の人であった。離婚もして、勤めていた会社を定年まで勤め上げて、ひとりで沖縄に行ったのである。それまで沖縄が好きで、よく沖縄に行っていた、とか、沖縄に縁があった、とか、沖縄に友人とか、恋人とかがいた、というわけでもないらしい。定年したら、暖かいところに行きたい、と常々いっていたらしいけれど。出版関係の仕事をしていて、その関連の労働組合の仕事はもっと熱心にやっていたから、それなりの"政治的"コミットメントもあって、沖縄に行ったのだと思う、おそらく。読谷とか、嘉手納とか、その辺に住んで、一体何をしていたのか、くわしくはわからないけれど、「週刊金曜日」の読書会をやっていたことがあった、とはきいた。

 この人は、わたしの連れ合いのロールモデルであった。こんなふうになりたいな、こんなふうに生きたいな、あの人がやっているようなことをやりたいな。そういう身近な憧れを持つことは、自分の進む道の方向づけをするようなもので、人生において起きる、とてもよきことのひとつだ。
 ましてやそういう人が身近な親戚のうちにいれば、それはとりわけよろこばしいことではあるまいか。幼いころから一貫して、その人の姿を追うことができるからである。

 連れ合いの母は、7人きょうだいの長女だから、彼女の一番下の弟は、わたしの連れ合い、つまりは自分の息子と年が同じくらいだった。一昔前には、同じ年齢層のおじとかおばがいることはちっともめずらしいことではなかった。この叔父は連れ合いより9歳年上、という、連れ合いにとっては、ほどよい「大人」で、幼い頃からよく遊びに連れて行ってもらったり、おいしいものをたべさせてもらったりしていたのだという。
 実家は商売をやっている家だったから、こどもたちは大学進学をまったくすすめられたりしていなかったが、くだんの叔父は、親の反対を押し切って、自力で都の西北の大学にすすみ、政治を学び、六十年安保を生き、出版社に入って労働組合の幹部となり、オートバイに乗り、市民運動に関わった。この人が連れ合いのロールモデルだったから、その憧れは、明確に連れ合いの進むべき道を決めたため、連れ合いは、都の西北の大学のライバル大学で政治を学び、学生運動でヘルメットをかぶり、出版社に入って、労働組合をつくって、オートバイに乗って、市民運動やLGBTの運動にコミットメントをもつような生き方をしたのである。そこまで、完璧なロールモデル踏襲である。

 最終的に嘉手納に住んだ叔父は、持病もあったし、酒も好きだったし、具合が悪くなるたびに、酒量も増えていったようで、つきあっていたらしい沖縄の彼女とも別れたみたいで一人で住んでいて、最後のほうは電話しても、どうもろれつがまわらなかったりして、うまく話せていなかった。
 それでもわたしたちは、それは彼の酒の飲み過ぎだ、くらいに思っていたから、それほど急を要するような事態が進行しているとは認識してなかったのだが、ある日、新聞受けに新聞がたまっていることに気づいた近所の人によって病院にかつぎこまれ、そのまま亡くなってしまった。そのときには妻も子もいなかったから、叔父の弟とわたしの連れ合い、すなわち甥が、ふたりで沖縄に出向き、最後を看取り、荼毘に付し、お骨を東京に連れて帰ってきた。さて、墓はどうしよう、ということになったとき、親戚中で一番仲のよかったうちの連れ合いが、うちの墓に入れよう、と提案した。適度に近代的な考え方の持ち主ばかりがあつまる親戚だったから、それならそれでいいよ、ということになり、「うちのお墓」にはいってもらうことになったから、それからあとの叔父の供養は、兄弟とともに、うちの連れ合いも、中心になってやってきている。ことしで7回忌になる。

 ロールモデル踏襲型の連れ合いとしては、本当は、叔父のようにひとりで酒浸りになって、言葉は悪いが「のたれ死に」のような死に方まで、真似したいようだが、そうは問屋がおろしません。わたしのようなおせっかいな連れ合いがついているので、ロールモデル踏襲の完璧さは、ここで崩れるのだ。きみは「のたれ死に」はできません。


 この叔父は、結構チャーミングな人だったから結婚、離婚も含め、何人かの女性と親密なパートナー関係を結んでいた。彼が亡くなってわたしたちが気づいたのは、彼はどの女性からもうらまれていないようである、ということであった。
 そして、それは彼が「いい男」だったことはもちろんだけど、もうひとつ、とっても重要なファクターがあった、ということに、遺品を整理していて気づいた。彼は別れた女性には、その理由如何に関わらず「住む家」か、「かなりの高額なお金」をわたしているのである。一介のサラリーマンだから、そんなに大金持ちであったはずもないが、ためてきたお金でいろいろなことをやったようだ。お金で済ませた、ということなかれ。お金は愛の流れである。
 だから、彼が死んだ時、手元に残っていたのは、葬儀と墓作り、そしていくばくかのきょうだいたちへの「おこづかい」程度のお金、だけであった(それだけのこっていれば立派なものと言える)。彼の死に際して何人かの彼の元パートナー(たち)に連絡したが、彼女たちはみな、涙を流して彼の死を悼み、いかに彼が良き人であったか、を、語りつづけた。わたしからみると、それは、彼の人となりのみではなく、わたしたお金にかかわっている、と、結構、思った。まわりにいる「すごくいい男でいい人」たちのうちにも、死んだときに別れたパートナーに優しい涙を流してもらえそうにない人も少なくない。男たちよ、金を貯めて、別れる女に差し出そう。死んだときにいい涙を流してもらえるよ。死んだときのことなど知ったことではない、という唯物論に逃げ込む方を、もちろん非難しておりませんが。


 しかしここで書きたいのは、叔父と金の話ではない。この連れ合いの叔父、たる人物を、おそらくは、ほかでもないわたしが、今後供養していくことになる、という人生の不思議、について書いておきたいのだ。
 叔父のことは、いまは気持ちの上では連れ合いが中心になって供養しているのだが、わたしが連れ合いより長生きすれば、叔父を供養するのは、わたし、ということになる。「うちの墓」におられるし。人の生き死にはわからないけれど、連れ合いはわたしより11年上だし、女のほうが平均余命、長いし、おそらく、わたしのほうが長く生きそうにみえる。その場合、叔父を供養するのは、わたしになるのだ。

 叔父さん、おせっかいだと思われましょう。数回、親戚の集まりで会った程度で、お互いの人生など語ったこともない、こんな、ほとんど見ず知らずの、「よその女」に供養されるなんて、思ってもいなかったことでしょう。親密な肉体関係も、精神的な関係も、家族関係も、数多の女性と築いてきたというのに、こともあろうに、あなたは、こんな知らない女に死後、供養されてしまうという不思議。それをやっちゃおうと思っている、わたしのおせっかい。
 人との関係は、生きているときだけではなく、死んでからもつくりあげられ、続くのである。おもてむきの供養は男がやっても、日々の祈りをささげ、思いをいたすのは、女の仕事である。世界中の女性たちがこうやって、親密な親族、会ったこともない先祖、縁のうすい親戚、なんだかそこに連なるあれこれの人、のことを記憶し、悼み、思いを次世代に継いでいたのであろう。その流れにまた、わたしも連なりたい、と思っているのである。

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三砂ちづる(みさご・ちづる)

1958年、山口県生まれ。兵庫県西宮市で育つ。
1981年、京都薬科大学卒業。
1999年、ロンドン大学PhD(疫学)。津田塾大学国際関係科教授。
著書に『オニババ化する女たち』『月の小屋』『不機嫌な夫婦』『女を生きる覚悟』など多数。最新刊は『女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言』(ミシマ社)。

女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言

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