おせっかい宣言

第10回 愛する力

2015.05.04更新

 うすうす、気づいていた。女たちが、なにか、おかしい、ということ。いいたくないけど、フェミニズムと某大手新聞社系週刊誌にあおられた「女の自己実現イデオロギー」と、家事と子育てと人の面倒をみることへの忌避。もちろん女をいじめたり、女に暴力を振るったり、女に都合の悪いことを全部押しつけたりしていいはずはない。どんなイデオロギーの持ち主だろうが、そんなことをする人は、単なる人でなしである。そういう話ではない。

 近代社会の作り上げた「公的」な部分に、つまりは、政治とか経済とか、そういう部分で、選挙権を持ったり、経済活動に参加していくことは、もちろん大切なことである。しかし、だからといって、すべての女性が(実は、人間は、だが)その公的な部分で社会的評価を受けなければならない、とか社会的評価なしには生きている価値がないとか、そんなはずはないのだが、実は、みごとにそうなっている。

 恋愛をして、男と一緒にすみはじめ、男と日々、暮らし始めた女がまず気にするのは「わたしはこの人と一緒に住んでいることで"わたしらしさ"を失っているんじゃないかしら、わたしはわたしの人生を生きていなければならないのに、できてないんじゃないかしら、それができないようだったら、別れたほうがいいんだわ」ということであるらしい。
 男と一緒に暮らし始めても、「わたしはわたしらしく」、つまりは、自分が金を儲けることとか、自分が男とは関係ないところで評価を受けるとか、自分の趣味を生かして生き生き人間関係をつくっていく、とか、そういうことができないと、「自分の存在価値はない」と思ってしまうらしい。
「わたしがわたしらしく」というのは、愛する人を支える、とか、大好きな人のそばにいてうれしい、とか、この人と家族をつくっていくことが楽しくてたまらない、とか、誰かと一緒に住むことで、家族とか先祖がふえてうれしいな、とかいうような文脈では、決してないのだ。「わたしがわたしらしく」生きていくとは、金銭の受け取りを中心とする他人からの社会的評価のことなんである。実現する自己をもっていないといけないわけである。いわゆる「自己実現イデオロギー」。

 そして、男も女も、ふたりとも総合職とかでバリバリ働いていた場合で、女性の方が仕事を辞めてしまった場合、「わたしはがまんして仕事をやめたのに、あなたのほうはずっと続けていて、それは、ずるい」ということになるらしい。
 どちらがやめてもいいのだけど、と、男女で話し合っていたが、まあ、女のほうが譲歩して、自分の道をあきらめたから、その時点で、二人の間の「ポイント」は女性側についている、まあ、かんたんにいえば、男の側が女に仕事を辞めさせた時点で「減点!」がつくらしい。
 どう考えても、外で働かないで、仕事をやめて家にいることになったら、そっちのほうが楽にきまっているのだが、「わたしのほうががまんして仕事をやめているのだから、あなたがわたしに負い目を感じてあたりまえ、あなたがわたしに尽くして当たり前」と、どこをどう押せばそういう考えになるのか理解できないのだが、少なからぬケースでそうなっているらしい。「家にいて孤立することがつらい」、「社会と関わっていないことがストレス」って、みんなそういう言い方を受け入れていますが、なにかおかしいよ。満員電車に乗らないですむだけ、家にいられるっていいんじゃないのか。

 いまどきの男性は、「やさしくて、家事も平等にできて子育てにも参画できるように」、という、その母親たちの願い(「呪い」、といいかえてもかまわないが)とともに育てられてきたから、仕事を辞めた妻に対して、実にやさしい。
 妻の言うように「本当は仕事ができるきみは僕のために仕事を辞めなければいけなかったのだから」と、負い目に感じてせっせと会社から帰って掃除機かけたり、お皿洗ったりするのである。ご苦労様なことである。
 とにかく女性たちは仕事を辞めて家にいると、「損した」と感じているのである。でもそれって、経済学の理論通りだなあ。仕事をしている女性たちはよい給料を得ているから家事や妊娠、出産、子育てによって失ってしまう「機会費用」が高い。そんなに多くの「得られるかもしれないカネ」を失ってるから、機嫌が悪いのである。ああ、わたしたちは、みな、ホモ・エコノミクス。ノーベル経済学賞をとったアマルティア・センは、従来の経済学が想定する自分の利益だけを考えて行動するようなホモ・エコノミクスを、合理的な愚かもの、と呼び、人々の行動は、利己的な動機に支えられているのではなくて、もっと倫理的な思考や道徳的な価値に動機付けられている存在だ、といったんですけどね・・・。

 そう言う「機会費用」を失った機嫌の悪さが、家庭内ではどのような態度としてあらわれるかというと、まず、家事をやらない。「仕事や社会的評価をわたしは我慢して、家にいる。あなたは、それをあきらめないで、外ではたらきつづけている。そんなの、ずるい。あなたは好きなことをやりつづけている上、それ以上、わたしに家で、わたしがやりたくない家事をわたしにやれというの。そんなのひどい、わたしはやらない」と、まあ、こうなるのである。
 だから、食事をつくらない。男の人が一日外で仕事をして帰ってきても、ごはんとか、できてない。「なんで、わたしがつくらなくちゃいけないの?」。つくっても一円にもならないから、つくる必要ないんです。家が掃除していなくても平気。子どもができるともっとエスカレートする。家で子どもの世話だけしているわたしは密室育児のストレスと社会に関われない不満でいっぱいで、子どもを虐待しかねない。だから会社で働くあなたももっともっと子育てに参加しなければならない。会社に行く前に保育所に子どもを預けにいってほしいし、ブリーフケースを置いたら、まずは子どもをお風呂に入れてほしい。わたしだけが損するなんて、フェアじゃないですから。

 先日講演会においでくださっていた80代の女性が、「わたしの母は、男の人は家を出たら外に7人の敵がいるのだから、家に帰ったら心から安心できるようにしてあげなさいよ」といわれて育ったのだ、とおっしゃっていた。
 会場の若いお母さんたちは、なんだかそんなことばは、きいたこともなくて、びっくりしているようにみえた。わたしだってびっくりするくらいのことばだったから。
 家族の安寧への祈りと献身、は死語である。確かに、女たちの「銃後の祈り」が数多の男たちを国のためにあの戦争で死なせた。その反省から、戦後民主主義のもと、女たちは祈ること自体をすててしまった。滅私奉公と家族への献身は同義であると理解し、「人がみえないところでわたしが支える」ことがあらためて機会費用を減少させる、と考えるようになった。
 悪いけどこういった態度がどれほど日本の男たちの足をひっぱってきたか、子どもたちをしんどくさせていった可能性があるか、もう、言うのも疲れるが、自戒をこめて言わねばならないのが、おせっかいおばさんの仕事かとも思う。

 女たちよ、愛する力をとりもどそう。愛と祈りは女の仕事だ。男は、わたしたちなしには幸せになれない。そして、わたしたちも男なしには幸せにはなれない。古今東西、ずっとそうだったし、これからもだいたい、そうである。「対」の幸せが、やっぱり幸せの基本である。いつかみんなひとりになる、だから、「対」を大切にしなくていい、というわけでは、決してないはずなのである。

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三砂ちづる(みさご・ちづる)

1958年、山口県生まれ。兵庫県西宮市で育つ。
1981年、京都薬科大学卒業。
1999年、ロンドン大学PhD(疫学)。津田塾大学国際関係科教授。
著書に『オニババ化する女たち』『月の小屋』『不機嫌な夫婦』『女を生きる覚悟』など多数。最新刊は『女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言』(ミシマ社)。

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