おせっかい宣言

第12回 LGBT

2015.07.07更新

 渋谷区では、同性パートナーシップ条例ができて、同性どうしのパートナーシップに結婚に相当する権利が与えられるようになった。アメリカの全州でも同性婚が認められるようになった、というニュースも流れてきた。世界の流れであり、この動きはいっそう進むと思う。いままでLGBTなんて何の興味もなさそうだった人も、レインボーフラッグなど掲げていたりしはじめて、これはたいへんけっこうなことである。国内外の数多の同性カップルの友人たちの具体的な顔が思いうかび、彼ら、彼女らの生活しにくさが減っていくだろうと思うと、うれしい。

 もう10年ぐらい前になるだろうか。いわゆるゲイで、活発に発言しておられた方のおひとりの話を個人的に耳にする機会があった。ゲイである、レズビアンである、バイセクシュアルである、トランスジェンダーである。それらは、性的志向の表明である。自らの性的志向がマジョリティーであるヘテロの、すなわち、異性間性的志向とはちがう、ということである。

 しかし、最近、そのマジョリティーであるはずのへテロの人たちの性的志向がなんだかどんどん希薄になってきているような気がする。男女間で欲望して、その果てに生殖に繋がる(ことも少なくない)、ヘテロの性。それがほんらいマジョリティーたる人の性的ビヘイビアーだったはずだが、どうもそのマジョリティーであるはずの人たちで、セクシャルに振る舞ってはいない人が増えてきているのではないか。そうなると、"性的マイノリティー"である、ということは、すくなくともセクシャルなことを自らにとっては大切なこととしている、ということの表明になり、違った意味で、"浮いて"しまうのではないか・・・。

 そんなふうに、言っておられた。細かいニュアンスは違っているかもしれないが、だいたいそういう内容だったのだ。この話を聞いた10年くらい前、"日本のセックスレス"はそんなにまだ話題にはなっては、いなかった。

 当時、彼の問題提起をわたしは非常に重いものと受け止めた。それからそれ以上の話をご本人から聞く機会もなかったが、危惧はいよいよ現実のものとなってきているのではないか。同性婚やパートナーシップがみとめられていくことと裏腹に、性、という人間の根幹が崩れていっているのではないか、と感じるからである。

 わかりにくいかもしれないから、説明を試みる。公式な文書等ではすでに「性的マイノリティー」という表現はどんどんなくなっているようではあるが、いわゆるゲイ、レズビアン、バイセクシュアル、トランスジェンダーなど、何らかの意味において「性」が非典型である人たちを性的マイノリティーと呼んできた。非典型というからには、「性」の「典型」があるわけで、「典型」が、すなわちマジョリティーである。

「性」において、マジョリティーとは、異性間、男と女の間のことである。なぜこちらがマジョリティーかと言えば、人間が生物であるかぎり、生殖活動を行って次の世代を残す、ということからは逃れられないからである。生物である限り、自分の生のみで完結するのではなく、次世代を残したい、という欲望を持つことからは、完全に自由ではいられない。自分が死んだ後も、この種が続いていく、ということを期待して生きざるを得ない。

 動物ドキュメンタリーでみるような、雪嵐の中、ただ、じっと卵を抱いて立ち続けるペンギンの姿や、餌をもとめて狩りに出るライオンの姿や、必死で川をのぼってくる鮭の姿も、ただ、次世代を残そうとする、切ないまでの行動なのである。我々もまた、その切なさから自由ではない。

 わたしたちの多くは、切なく異性を求める。なぜこの人でなくてはならないのか。世界中にこんなにたくさん男はいるのに、なぜこの男のことにわたしはこんなにふりまわされるのか。なぜこの人の行動のひとつひとつが気になり、言葉のひとつひとつに感情をかき乱されるのか。なぜこの人のことを何でも知りたいと思い、何でも分かち合いたいと思い、この人の寝顔をずっとみていたい、と願うのか。なぜ、この女でなければならないのか。性格も悪いし、すぐにすねるし、しつこいし、しかし他の女は目に入らない。この女を幸せにするなら何でもしたいし、目覚めたら傍らに眠っていてほしい。

 理不尽な男と女の求愛行動は、次世代を残そうとする本能にかなりの部分ドライブされているのであろう。その切なさは、なんだかどこかが相手に似ている赤ん坊が生まれたりするとその笑顔の輝きで、一瞬忘れさせられたりするのである。その切なさを生活、という実態におきかえて日々をより美しく生きていくために、人間は結婚したり、家族をつくったりしてきたのであろう。

 世界中で多くの男と女はそんなふうに生きてきた。それがマジョリティーと呼ばれる、「性」の「典型」であったのだ。そこが安定していると、すなわち、男と女が安定した性のパートナーを得て、それなりに暮らせていると、身近な世界はおおよそ平穏であることを人類は学んできていたのだと思う。

 いま、この国では、そのように「男と女が出会い」、「結婚」などをして(あるいは同棲をして)、次世代を産み育てる、ということのハードルがあまりに高くなってきている。妙齢の男と女が自分たちで相手をさがさなくても、出会いの機会があるように、おせっかいをやいていた近所のおばさんとか会社の上司、といった類いの大人は、消えて久しいし、エネルギーのありそうな女ほど結婚なんかしなくていい、仕事に生きればいい、と言っているし、せっかく出会って二人で住んでも、子どもはいらないというし。

 独身男女の数は統計上もおそろしい勢いで増えている。安定した性的パートナーを持たずに、ひとりで人生を生きていく。それはとりもなおさずマジョリティーであるヘテロの人たちの少なからぬ数が「性的」には生きられない、ということを意味する。

 最も危惧しているのは「性」が特別なことになること。相手を見つけるのがここまでたいへんで、結婚、という形をみんながとることができなくなれば、「性」は全ての人のものではなくなり、相手を見つけることができたラッキーな人だけのものになりかねない。そうなってしまえばLGBTはあらたな差別と奇異の目にさらされる。

 いままでわたしは女性性とか出産とかに関して発言してきたから、「女性が産むことばかりいうと産めない人が差別される」とか「女性性を強調すると多様なセクシャリティーを否定する」とか批判されてきたけれど、再度言っておきたい。この性と生殖の「人間が産んで増えて死ぬ」ことの基本が担保されているからこそ、多様性もみとめられるのだ。

 マジョリティーの男女がセックスレスになり、結婚することのハードルがあまりに高くなり、子どもも産まなくなったり、産めなくなったりしてくると、「性」を大切なものとして生きる、という人間の根幹が疑われるようになり、セクシャルマイノリティーであることの発言が、「自らが性的であること」の特別な表明になってしまうのだ。

 わたしたちは、人類がたどったこともない、おそろしい時代を生きようとしているのではないのか。男と女は、もっと愛し合いたい。

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三砂ちづる(みさご・ちづる)

1958年、山口県生まれ。兵庫県西宮市で育つ。
1981年、京都薬科大学卒業。
1999年、ロンドン大学PhD(疫学)。津田塾大学国際関係科教授。
著書に『オニババ化する女たち』『月の小屋』『不機嫌な夫婦』『女を生きる覚悟』など多数。最新刊は『女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言』(ミシマ社)。

女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言

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